変声期の途中

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 中学に入学して一週間が経った日の帰り道、恭太は初めてメイを見た。 田圃と用水路の間の狭い農道を歩いていると、突き当りの車道から右に折れてこちらへ歩いてくる人影が見えた。恭太はその人影を、風に揺れる緑色の稲やそれにふんわり色を添えるレンゲソウにタネツケバナ、遠くに見える黒々とした山の連なりや建造物などと同等に眺めてしまう事が出来なかった。その人物の頭髪が煌びやかな金色で、周りの景色と同化させてしまうには色の主張が強すぎたのだ。すれ違いざま、恭太はその顔を一瞥した。目尻の細った切れ長の目に小さくつんと尖った鼻、への字の口に赤々とした唇、丸っこい輪郭とそれを覆うように整えられた滑らかな髪質のボブヘア。外国人の特徴は無かった。その顔は幼く、恭太と同年代の少女に見えた。幼顔に金髪という奇抜な見た目に恭太は思わず振り返り、少女の後姿を見た。少女は金髪をふわふわと揺らしながら、飛び交う蝶を目で追っているかのように辺りを見回して歩いていた。その金髪は角度によって真っ白にも灰色にも、薄く緑がかっているようにも見えた。 少女は不意に立ち止まり、畔をじっと見降ろした。恭太もその視線の方に目をやる。そこには脱いだまま持ち帰り忘れたのか、ゴム製の黒光りした農業用長靴が置いてあった。少女はその長靴をしばらく眺めた後、再び歩き出した。西日は少女の長い影を地面に描いた。恭太は少女が長靴を見下ろしている時、微かに笑みを浮かべていたような気がした。帰路を歩く傍ら、視界の片隅にはその横顔がずっと映っていた。   その少女がクラスメイトの桂木メイではないかと考えたのは、次の日のホームルーム中でのことだった。 恭太の隣の席は月初めの席替えの日からずっと空いている。入学式後のホームルームで、まだ席の配列が出席番号順のときもその席だけが空いていた。恭太はその空席を自分専用の荷物置き場に利用していた。その行為を咎める者は誰もいなかった。桂木メイが一年五組にいない事はクラスにとって当たり前のことになっていた。 その名前が呼ばれるのは朝のホームルーム中、担任の教師が出席をとる時だけだった。桂木メイは出席簿の中にだけ存在していた。恭太は五月になってメイの空席と隣り合わせになってから、朝のホームルームでその名を聞くたびに空席をちらっと見た。勿論、その席には恭太のスクールバッグがどかっと置いてあるだけだった。その日もメイの名前が呼ばれ、恭太は隣の席に目をやった。その時、昨日見た少女の横顔を思い出した。あの金髪の少女は昨日のように微かな笑みを含ませながら恭太のスクールバッグを見下ろしていた。その席に少女が座っていると考えても違和感は無かった。根拠はないが、あの少女が桂木メイだと強く信じる事が出来た。恭太はその日から、帰り道にあの金髪の少女の姿を探しながら歩くようになった。   六月、朝のニュース番組で明日から雨が続くという予報を耳にした恭太は、その一日を纏わりつくような不穏の中で過ごした。月初めの席替えで専用の荷物置き場を失ってしまった事もこの不穏の原因のひとつだろう。 帰り道、いつもの農道を進み左に曲がる。道路の向かい側にコンビニがあり、恭太はいつもの様に車が来ない事を確認してから歩行者信号の少し手前で道路を横断してコンビニの駐車場に入った。二か月の登下校で様々なルートを試し、このコンビニの駐車場を抜ける道が最短ルートであることを発見していた。コンビニの正面を通り、奥に設置されているプラスチック製の、青色だったものが劣化して水色になったベンチの前を抜けようとした。しかし、その周りには作業服姿の男たちが煙草を吸って談笑していて、そのうちの一人は座る場所が無く、立って壁にもたれながら煙を吐いていた。その前方には車が停まっていて、壁との幅は本来なら人ひとり通れる広さだが、男が縁石に足を乗せていたので通路を塞いでいる形になっていた。恭太はそこを通ることを諦めて踵を返した。すると、コンビニからあの金髪の少女が出てくるところに出くわしたのだ。 恭太は臆する間もなく、気付くと少女に声を掛けていた。内気で人見知りである自分が、そんな大胆な行動をとった事に自分でも驚いた。彼女の華やかな頭髪が、誰をも受け入れてくれるような、そんな明るさをしていたからなのかもしれない。悪い事になるような気はしなかった。 「もしかして、桂木メイさん?」  少女はその声を聞いて恭太の方を向く。少女は無表情で恭太を直視していた。その見定めるような視線に恭太は動揺した。しかし、桂木メイという名を聞いた時に見せた彼女の小さな表情の変化が恭太の予想を確信に変えた。 「なんで知ってるの?」  不思議そうにそっと尋ねる彼女に、恭太は自分がクラスメイトであることを明かした。すると彼女の表情は、顔に貼りついた仮面がひび割れてぽろぽろ零れ落ちていくように徐々に柔らかくなっていった。  と、メイは自分の手の甲に落ちた小さな雨粒を見た後、空を仰いだ。空はいつの間にかのっぺりとした灰の雲に覆われていて、そこから落ちてくる雨粒が自動車のルーフを優しく叩いた。コンビニの駐車場の黒いコンクリートにはさらに濃い黒のシミが点々と増えていき、ベンチの周辺を陣取っていた男たちは各々の移動手段で帰っていった。メイは何も言わず空いたベンチに向かって歩いて行き、恭太もその後ろをごく自然について行った。これがいつもの慣例かのように、ふたりはベンチに腰を下ろした。肩が触れ合うくらいの距離、互いの体温を感じる距離でふたりはただコンクリートがさらに濃く染まっていくのを見ていた。    メイは髪を耳に掛けた。小ぶりな耳は、ずっしり重そうな金の束を支えるには少し心許ないように見えた。メイと恭太はコンビニの隅の古ぼけたベンチで色々な話をした。恭太は中学校での生活や、学んでいる勉強の内容、自分の所属する陸上部の事などを話した。メイは小五で学校に行かなくなり、それからこの町に越してきた事、父子家庭である事などを話した。メイの口ぶりは淡々としていた。決して相手からの同情を許さないかのような、そんな軽薄さを言葉に含んでいた。  メイの両親はメイが四歳の時に離婚した。自立心が強く奔放な性格の母は、父の反対を押し切り事業を起こしたのだが、軌道に乗らず開業一年足らずで傾き、立て直しを図るも大きな借金を残しただけという結果になってしまった。母は「あなたたちに迷惑をかけるわけにはいかないから」と、一方的に離婚の意思を父に伝えた。父は母を愛していたが、結局はメイの為を思い離婚を決意した。  恭太は出来るだけ興味がなさそうに聞こえるよう努めて、 「ふうん」と言った。しかし、そう努めずとも彼に母親がいない本当の困難さや寂しさなど分かりはせず、たいしてその微かな同情の色が顔に出ることは無かった。メイもそんな恭太に気分を害することは無かった。恭太はメイを気遣った訳ではなく、こういった深刻な話にはこういう態度をとるのが一番いいと知っていたのだ。   「止まないね」 「うん」 「雨、明日からって聞いてたんだけど」 「うん」  恭太が自分にとって無害と知ると、メイはよく喋った。もうふたりの間に話す事は無かった。取り留めのない事をメイはこの止みそうにない雨のようにぽつりぽつり零した。互いが互いを知り尽くしたような気持ちになっていた。ふたりの間に生まれたのは澄み切った友情だった。  恭太は足元の吸殻を蹴り上げた。吸殻は屋根の下から雨曝しの中に転がっていき、どんどん雨水を吸ってふやけていった。煩わしかった雨音も今では日常を構成する音の一つとして溶け合っていた。店内に流れているBGMが、入り口の自動ドアが開く度に微かに聞こえてくる。 「今、練習してる曲だ」 恭太もメイに倣って、ぽつりと零した。 「練習?」 「うん。家でギターの練習」 「へえ、弾けるんだ」  メイの目は好奇心で潤んで見えた。メイを初めて見た日と同じ目だと恭太は思った。そういえばメイは、何故あの時笑っていたのだろう。メイは前のめりになって恭太に顔を近づけた。耳に掛けていた髪がまた落ちた。 「うちのお父さんもギターを持ってるんだ。若い頃に買ったらしいんだけど、結局練習もせずに飾りになってる。すごいなあ、楽器ができるなんて」  恭太は思いがけず、はにかんだ。今まで自分がギターを弾けるという事に対してここまで称賛してくれたものは一人もいなかった。 「そうだ、今からウチにきなよ。あのギターを弾いてみてよ、きっとギターも喜ぶよ。だって買われてから一度もまともに弾いてもらえてないんだもん」  恭太は、部屋の片隅で埃をかぶるギターを想像した。それがアコースティックギターなのかエレキギターなのかメイから聞かされていなかったが、何故かエレキギターを想像した。恭太が持っていたのはアコースティックギターだった。エレキギターなら一度弾いてみたいと思い、メイに「うん」と肯いた。  雨は一向に止まない。行こうと提案したのはメイだが、濡れる事を思うと躊躇ってなかなかベンチから腰が上がらない様子だった。恭太はスクールバッグから体操着を取出し、メイに手渡した。 「これ、頭に被って走って行こうか」  メイは手元の、柔軟剤の匂いが微かに残る体操着を見た。胸元には恭太の名前が大きく書かれたゼッケンが縫い付けられている。メイはそれを頭から被った。メイの頭と肩が白い布で覆われた。コンビニから五分もかからない場所にあるのだとメイは自分の家の方向を指差した。恭太は着ていた白の開襟シャツを脱いでスクールバッグに詰め込み、Tシャツ姿になった。メイの家を目指し、雨で白くぼやけていく中を駆けていった。      メイの家は恭太の住むマンションからそう遠くない場所にあった。国道に抜ける裏道、そこに建ち並ぶ中の一軒だった。恭太にとってよく見慣れた家だったが、それがメイの住む家だと思って改めて見ると、いつもとまるで違う佇まいに見えた。小さな門扉の奥にはすすけた色の木壁が印象的な二階建ての日本家屋が恭太を見下ろす。サッシの引き戸の上には表札がかかっており、そこには確かに「桂木」と記していた。門扉を抜け、わずかな段差を上がる。薄暗い庭には灌木が数本植わっていた。水瓶からハスの葉が青々と茂っていて、雨水が雨樋をからからと鳴らしている。 「タオル持ってくるね」  メイは引き戸を開け中に入り、上り框に腰掛けてスニーカーを引き剥がすように脱ぐと、奥へと駆けていった。恭太は開けたままになった引き戸から中を窺った。奥まで伸びる廊下は薄暗く、右手前の階段は上階が見えないほど急だった。メイのぱたぱたと床を走る音が廊下いっぱいに響いていた。  暫くするとメイがバスタオルを持ってやってきた。メイの 髪はすっかり濡れ、所々束になって跳ねていた。濡れるとその色合いも違って、さっきよりも暗い色に見えた。 「服も貸そうか? わたしのだけど、男子でも着られるデザインのTシャツもあるよ」 「いや、いい」  恭太はびしょ濡れになったTシャツを脱ぎ、スクールバッグに入れておいた開襟シャツを羽織った。メイからバスタオルを受け取ると、それで頭を豪快に拭いた。バスタオルからは懐かしいにおいがした。  頭を拭き終わり、顔を上げると右手前の扉が開いた。そこからは六十代くらいに見える細身の女性が出てきて、恭太を見るなり「あら」と驚いた。よく響く高い声だった。 「おかえり、濡れてるじゃない」 「降られちゃった、こちらは恭太君。さっき仲良くなったんだ」 「風邪引くよ、とりあえず中にお上がり」  恭太は促されるままに女性が出てきた扉の奥に案内された。女性はメイの祖母だった。扉の奥は居間で、そこを抜け、台所兼食堂に通された。大きなダイニングテーブルの前に台所があり、その上には解凍中なのか、凍った鶏肉のパックが置いてあった。  短い恭太の髪は殆ど乾いていた。スラックスも両腿が部分的に濡れているだけで、下着までは浸透しておらず不快では無かった。祖母はメイと同じように恭太に着替えを勧めたが、恭太も先程と同じように「大丈夫です」と断った。祖母は「あら、そう」と簡単に引き下がった。  メイは髪を乾かしに台所を出て行った。その間、祖母は恭太にカフェオレを作って出した。カフェオレを飲むのは初めてだった。白く分厚いマグカップの中で揺れる茶色い液体。恭太はそっとマグカップの縁に口をつけ、一口啜った。舌の奥に広がる苦みを牛乳が柔らかく整えてくれる、そんな味。コーヒーを牛乳で割っただけのシンプルな味だった。  メイが戻ってくると、祖母はメイにも同じものを出した。メイは恭太の隣に座り、横並びでカフェオレを飲んだ。カフェオレは恭太の胃袋に全て収まり、空になったマグカップの底には黒い塊が沈殿していた。隣のメイはカップを両手で包み込むように持ち、一口ずつゆっくりとカフェオレを飲んでいた。 テーブルを挟んだ向こう側には祖母が座り、片肘をついて見守るような視線を恭太とメイに送っていた。 「あんたたち、かわいいね」祖母は言った。 「ふふ、でしょ。かわいいでしょ」 「からかってないのよ。あんたたち、本当にお似合いよ」 「お似合い、だって」メイは恭太の方を向いて笑った。  恭太はどう言っていいかわからず、笑って首を傾げた。何がどういった理由で自分とメイがお似合いなのか恭太にはよく分からなかった。 「ギターは二階にあるんだ、行こう」  恭太は急かすメイをよそに、前に座る祖母を見てたどたどしくカフェオレの礼を言った。 「いいのよ」  祖母は目を細めながら大きな歯を見せ、にっと笑った。口の中で銀歯が光った。   木製の吹き抜け階段は、踏みしめるたびに音を立てて軋み、マンション住まいの恭太は踏み板が抜けてしまわないかと気が気でなかった。メイに案内された部屋は八畳間の和室だった。その奥の四畳半ほどは全て段ボールで埋まっていた。東側の引違窓の片側は積み重ねられたダンボールで隠れていて、もう片方の窓だけが外からの雨の隙間を縫って届くわずかな光を部屋に招き入れていた。 「ほとんどお父さんの荷物なの。引っ越してきてからちゃんと整理できてないんだ」  メイは天井にぶら下がる照明の紐を引っ張った。明かりは薄暗く埃っぽい室内を飲み込むような白さで照らした。その真下で明かりを浴びるメイの髪色はまた違う色に見えた。 「いつ越してきたの?」 「今年の三月」  恭太がメイを認識する以前からメイはこの町にいた。恭太はメイを知らなかったその時間をとても惜しく感じた。お気に入りのテレビ番組が放送されている事に数十分経ってから気付いた時のような気持ちだった。
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