変声期の途中

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 段ボールのタワーの間から出てきたメイの両手には布製の黒いギターケースと小型のアンプがあった。ギターは恭太の期待通り、エレキギターだった。黒いボディに白いピックガードのストラトキャスターで、本当に全く触っていないのか、状態は良好だった。ヘッドには「Rooster」と聞き覚えのないメーカーのロゴが印字されている。安物のギターではあったが、少年の目を輝かせるには十分な代物だった。  恭太は早速アンプとギターを繋いで音を鳴らそうと試みた。アンプから伸びるシールドをギターに繋げて、アンプのスイッチを入れる。「ブチッ」と何かが裁断されたような音が鳴り、その後で「フォーン」と弦の振動がそのままアンプから聞こえた。弦はすっかり錆びついていたが、アンプから発せられたその音は鋭い金属音だった。弾いたのは先程コンビニで流れていた曲だった。「G」「C」「D」でほとんど構成されている、なんて事の無い流行のポップスだったが、これもまた少女の目を輝かせるには十分だった。恭太はコードを押さえ音を鳴らしながら控えめに歌った。他人の前で演奏するのは初めてだった。初めは顔を紅潮させ、緊張で心臓は高鳴っていたが、次第に歌声はリラックスして高らかになっていき、バッキングは単純なパターンのコードストロークから、アルペジオやプリング、ハンマリング等の小技の入り混じったものになっていった。メイは小首を揺らしながらリズムをとった。金の頭髪はチューリップスカートでめかし込んだ妖精が腰を横に振ってその場を大いに盛り上げているかのように左右に揺れていた。それにつられて恭太の歌もさらに高らかになった。  演奏と歌が終わり、メイから拍手喝さいを浴びた。恭太は照れを誤魔化すようにチューニングを調整した。メイははっきりと、また時には呟くように「すごいねえ」と何度も口にした。ギターを齧っている本人からすれば簡単な曲をやっただけで、そこまで褒められるような事はやっていないのに、と思わず下を向いてしまうのだが、それでもメイは頻りに「すごい」と恭太を褒めた。  ギターを弾いている最中、コードを押さえる恭太の手元をじっと見るメイの顔が恭太の目に飛び込んできた。その顔を見て、恭太はメイに聞き忘れていた事を思い出していた。 「桂木さんを一度、見かけた事があるんだ」 「どこで?」 「コンビニの近くの、川沿いの細い道」  メイは頬に手を当てて考える仕草を見せた後、 「ああ、あの道。よく通るよ、そっか、一度会ってたんだね」 「その時、桂木さんが長靴を見て笑ってるような気がしたんだ。何で長靴なんか見て笑ってたの?」 「わたし、そんなだった?」  メイは肩をすくめ、照れ笑いを浮かべた。 「家族にもたまに『なんで笑ってるんだ』って言われることがあるの。きっとその時は頭の中に何か思い浮かんでいて、それが面白くて笑っているんだろうけど、そんな事ってすぐに忘れちゃうんだよね」 「そっか、忘れたのか」  恭太はそう言いつつ、内心忘れてくれていて良かったと、ほっとした。何故かわからないが、質問を終えた途端、それがつまらない理由でも、面白い理由でも、もうどうでもいい事のように思えてきた。自分の中であの光景は理由のつけられないものとして置いておくことに決めた。   時刻が午後六時を回った頃、恭太はメイの家から出た。家を出る際、メイとその祖母は門扉まで見送ってくれた。祖母は夕飯の準備の最中なのか、水色のエプロンをしていた。一階には煮物の甘い匂いが充満していて、それが恭太の空腹を誘った。「また来てね」メイと祖母は交互に言った。  雨は上がっていたが雨雲は依然として空を覆っていた。地面には深い水溜りが点在し、車がそれを踏み散らかす。恭太の爪先は次第に濡れていき、歩くたびにくちゅくちゅと音が鳴った。悪路だった。しかし、足が濡れても泥が跳ねてもいいと思えた。梅雨が人々の心をも曇らす中、恭太にだけ両手いっぱいの太陽があった。    それからもメイとは度々会った。外は毎日の様に雨模様で家にギターを弾きに行く事が多かったが、メイやその家族は恭太の来訪をいつも温かく歓迎してくれた。メイの祖母は恭太にいつもカフェオレとおやつを出してくれた。ギターを弾きに行く前に、ダイニングでそれらをもらいながらメイと祖母と談笑した。カフェオレは恭太の好物になった。もうひとつ好物になったのは四角いブリキの空き缶に沢山入れられた様々な種類のおやつ(メイはそれをおやつ缶と呼んでいた)の中にあった黄金糖だった。小麦色に透き通った琥珀のような飴で、メイもそれが大好物だった。メイは柿の種やルマンド、ホワイトロリータには目もくれずに黄金糖だけを食べた。恭太は黄金糖を一気に二粒も口に入れて頬を膨らますメイを見て、黄金糖の食べ過ぎで髪が金色に変色したんだと冗談を言って二人を笑わせた。 「髪切りに行くって言って出て行って、帰ってきたらこんな髪の毛になってたんだから、びっくりしちゃったわよ」  祖母はお菓子を咀嚼する口を手で隠しながら笑った。 「なんで金髪にしたの?」恭太は聞いた。メイは至極つまらない事を聞くんだな、というように「気分だよ」と短く答えた。  メイの家には、祖母の他に祖父と父が住んでいた。祖父は寡黙な人で、恭太が来ると「いらっしゃい」と言ったきり新聞や本やテレビから視線を離さなかった。  メイの父もどちらかと言うとシャイな方だったが、それが親の務めだという風に、メイの友達である恭太に「学校はどう?」とか「勉強は難しい?」とぎこちなく話しかけた。恭太もそれを感じ取って緊張するので、ふたりの間には絶妙な距離感があった。メイの父は引っ越してくる前にやっていた仕事を辞めて、大学で取得した司書資格を使って市立図書館で働いている。前職では多忙なうえに子育てもあるものだからなかなか親子の時間というものが作れず、仕事が落ち着けば実家に帰って違う仕事をしながらメイとゆっくりとした時間を過ごすと決めていたのだ。  メイは父親に対して我儘だった。それは愛のある我儘とでも言うべきなのか、それ自体が親子の一つのコミュニケーションだった。わざと父親に無理を言って困らせる、そういう事が出来る余裕が二人には幸せだった。引っ越す数か月前は、辞めると決まっていたので是が非でも仕事をきれいさっぱり終わらせようと親子の時間もままならない日々が続いていた。それ以前でも、ふたりは日々を血の通わない事務的な様相で過ごしていて、その原因は全て子育てを一人でしている事と多忙な仕事環境にあり、メイもそんな家庭状況を顧みて我儘は言わないようにしていた。メイは学校でイジメにあっている事も、余計な心配はさせられないと父には相談できず、メイの不登校という状況の一因は自分にあるという反省が退職と引っ越しを決定づけた。ともあれ今は幸せに暮らしている、それは恭太にも目に見えて伝わった。父親をからかうメイの幸せそうな顔は恭太の顔をほころばせた。そんなメイと父との関係を傍から見ているのが好きだった。    今日も濡れた傘の水を昇降口で切り、靴箱の前の傘立てに入れる。泥ですっかり黒ずんだ運動靴を脱ぎ、上履きに履き替えた。一年五組の教室は三階の東側、一番端に位置している。そこに向かうまでの廊下は長い。雨の日の、日光が差さず薄暗くなっている廊下が恭太は嫌いだった。蛍光灯が放つ真っ白い光は、陽光本来の柔らかさの無い、偽物らしい下卑た光を床に映し出す。表面の滑らかなリノリウムの床は湿気を含んでいて、ゴム製の靴裏に引っかかって歩きづらかった。 自分の教室に向かうまで、一年の様々なクラスの横を通る。笑い声、椅子の足が床を引っ掻く音、埃っぽい匂い、それらを体が感知するより先に教室を通り過ぎる。一クラスに必ず何人かは、同じ小学校出身の見知った生徒がいる。恭太はそれを見るのが嫌だった。親しんだ学友たちの変化を見るのが恐ろしかった。 教室に入る。教室の前方の、入ってすぐ横の席でクラスの男子数名が集まって笑い合っている。恭太の席はその三列後ろだった。男子達の間を通って席に向かう際、その視線の先に目をやった。机の上には教科書が開かれていた。「第二次性徴の男女の発育」というテーマで、裸の男女が直立していて、胸が膨らむ、声が低くなる、性器の周囲に毛が生える、などと発育の特徴が吹き出しで説明されている絵が載っている。それは保健の教科書だった。以前は地理の授業で使う世界地図でエロマンガ島を探して盛り上がっていたメンバーだという事に恭太は気付いた。以前のエロマンガ島は笑えたが、今回は駄目だった。メンバーの中には同じ小学校出身の吉岡もいる。 こういうので笑うのは、変態だ。そうだっただろ? 吉岡に向かって心の中でそう呟く。彼も変わってしまった。 「変態は、死刑」 自分の席に着き、小学生の時に男子の間であった合言葉を、今度は口に出して小さく呟いた。その合言葉を実直に守っているのは今では恭太だけだ。 いつかの地理の授業中、大陸は昔、ひとつのもので、長い時間をかけて今の六つに分かれたと教師が言っていた。恭太はそれを聞いて自分たちみたいだと思った。小学生の頃は皆で、男女も関係なく一緒に運動場で遊んだ。それが今では、男女に分離し、それどころか、同じ性別でも一クラスに幾つもの大陸が存在する。その分離は小学生の時、学年が上がるにつれてどんどん進み、中学生になって他の小学校からの生徒も加わり、さらに加速した。 小学五年生の辺りから歳を重ねるにつれて徐々に、クラスメイトは互いの体の違いを意識し始め、中学に上がるとそれは顕著になる。ひとつのクラスメイトから男女に分離し、仲違いが生まれた。何故男は女と、女は男と遊ぶのを嫌うのか、分からなかった。つい最近まで一緒に泥だらけになって遊んでいたのに。母に相談すると、「女の子は体の作りが違うの」と説明を受けた。「どう違うの?」との質問には答えてくれかった。 中学に上がると、男子は女子の体に興味を持つようになった。恭太も、高学年のころから女子の体つきが変わっていく事に気付いてはいた。しかしそれをどこかコミカルに捉えていて、そこに性の魅力を感じてはおらず、それは今も変わっていない。 中学では男子は女子の体を話題にするようになった。恭太はそれが嫌だった。幼い頃、スーパーマーケットの紳士服売り場の試着室にこっそり入り、そこに捨てられていた猥褻な雑誌を見て大きなショックを受けた事があった。男の欲望のエネルギー体のようなそれは幼い恭太には刺激的すぎた。深くえぐられたようなショックは、表面だけが回復していて、今も深層では炎症を起こしながら疼いているのかもしれない。同年代の男子の、健全とも言える性への探求心に恭太が嫌悪感を抱くのは、そういった古傷が多少なりとも影響していた。 恭太は自分の体の丸っこく柔らかい特徴がきらいだった。それを意識したのは中学の体育の授業中、ペアになって柔軟体操をした時だった。出席番号順に、前後でペアになった。恭太のペアは中村だった。中村は発育がよく、恭太より十センチ近く背が高く骨格も男らしかった。恭太は長坐位になった中村の背中を後ろから押して、前屈運動の補助をした。中村の背中に触れた時、恭太はその硬さに驚いた。骨の無機質な硬さではない、車のタイヤのような、強固な弾力のある筋肉の硬さだった。恭太はその弾力に触れながら中村の背中をぐっと押す。中村が前に屈むにつれて、肩甲骨の筋肉が盛り上がり恭太の手を押し返す。まるで背中に凄まれているようで、恭太は尻込みした。 クラス内での分離は留まらない。小学生の頃よく遊んだ友人たちは新しいグループに自然と加わり、疎遠になった。同じ室内にいながらも、疎遠という言い方をしていいほど、心からの交流が途絶えた。 いつからか、教室でひとり俯くことが多くなった。変わっていく自分の体や感情、環境や考え方に折り合いを付けて行く級友たちに、仲間外れにされたような劣等感を抱くようになった。気付くと一日、誰とも話していない事もあった。部活動は人との体格差を思い知らされるし、もう大人のような体つきの先輩から卑猥な話を聞かされるのが嫌で幽霊部員になっていたが、力を入れて熱心に活動しているクラブでもないので、顧問の教師から咎められるようなこともなかった。 今ではメイが唯一の友達だった。メイだけは、いつかの男女に分離する前のように、友達として接してくれた。恭太はそれが心地よかった。メイの心はきっと、学校に行かなくなった小五で止まっているんだ。だから自分と友達でいられるんだ、と恭太は思っていた。メイはクラスでの仲間同士の柵に振り回される必要は無い。競争する相手がいないので、自分のペースで心を育てる事が出来た。その歩調が丁度、恭太と同じだったのかもしれない。
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