君を染めた僕の赤色

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「こんなに頻繁に私と会っていて、奥様に怪しまれないんですか?」 不倫相手である部下の希乃(まれの)に駅まで車で送ってもらっていると、運転席の彼女が悪戯っ子のような笑みを浮かべて僕に尋ねた。どこか挑戦的な眼差しだ。正直、二人きりの時に家庭の話はあまりしたくはない。 「妻は僕のことを信頼しているから。帰りが遅い理由は、取引先との会食や同僚との飲みの席で通せてるよ」 「最低ですね。将来確実に地獄に落ちますよ」 妻帯者と不倫をしている身でよく言えたものだが、そんな面の皮が厚いところも含めて希乃のことは嫌いではない。 六歳年下の小生意気な部下。決して若い肉体に依存しているわけではないし、妻と初めて出会った時のようなときめきは一度も感じられていない。それなのに、希乃の何が僕をここまで狂わせるのだろう? どうしてあの日の飲み会の後に、彼女の誘いに乗ってしまったのだろう? いつまでも続けられるような関係ではない。彼女が気まぐれに秘密を暴露でもした日には、僕の社会的信用は地に落ち、全てを失うことになる。 ひょっとしたら僕は、目の前の希乃ではなく、不倫という背徳感に酔いしれているのだろうか? 全てを失うかもしれないリスクにさえも快楽を見出しているのだろうか? だとすれば僕は相当な変態だ。 「深刻な顔してる。やっぱり地獄に落ちるのは嫌?」 「死んだ後のことはどうでもいいけど、生き地獄はごめんかな」 仮に生き地獄が訪れようともそれは因果応報なのに、それさえも理不尽な災いのように語る。虚勢も張れない僕の何と矮小なことか。 「失うものはあなたの方が多いものね」 「僕の運命は君の掌の上だ。せいぜいお手柔らかに頼むよ」 「安心して。私はあなたとの関係に愛もお金も求めていない。ましてや奥さんと別れて一緒になりたいなんて、そんな独占欲を感じたこともない。私はただ、針の(むしろ)の上で綱渡りをするスリルを求めているだけ。あなただってそうなんじゃない?」 「鋭いな」 心の中を見透かされているようでゾッとした。スリルと背徳感。表現は異なるが僕達はお互いに相手ではなく、不倫という行為にこそ興奮を覚えているのだろう。 どうして希乃との関係を続けているのか、今になって得心がいった。僕と希乃は似た者同士なのだ。ある意味ではその関係性は、恋人同士ではなく、不倫というツールを介した同好の士に近いのかもしれない。 「君といると退屈しないよ」 「私もよ。だけど飽きたらいつでも遠慮なく言って。その時は後腐れなく離れてあげる」 「いつかは終わる関係だが、今はまだ想像がつかないな」 「終わりを想像出来ないなんて、夢見がちな坊やみたい。奥さんの純真さにでも染まった?」 「……ここでいい」 人目を気にして、駅の少し前で降ろしてもらうことにした。 話の流れを断ち切る口実があって幸いだった。希乃の問いに、僕は何も言い返せる気がしなかったから。 「今日もありがとうございました。お土産も後で美味しくいただきますね」 無回答を返答として受け取ったのか、元々大して興味が無かったのか。希乃は質問を掘り返すことはせずに扉のロックを解除した。 「週末は奥様にサービスしてあげてください」 「言われなくてもそのつもりだよ」 希乃に別れのキスをすると、僕は家路についた。  ※※※ 「まだ起きていたのか。先に寝てても良かったのに」 「そのつもりだったけど、読み始めたら止まらなくて」 帰宅すると、パジャマ姿の霧子がソファーの上でカバーのついた文庫本を読んでいた。すでに日付も変わる頃だが、健気に僕の帰りを待っていてくれたらしい。 「会食はどうでした?」 「先方とのやり取りは良い意味で白熱してね。とても有意義な時間が過ごせたよ。次の仕事にも繋がりそうだ」 「それは何よりだわ。頼彦さんは相手の心を掴むのが上手いから」 他意はないのだろうが、疚しい事情を抱えた身にはどこか意味深に感じる。何も疑っていない、純粋な眼差しで言われるのだから尚更だ。 「その紙袋は?」 「先方からお土産に頂いたバウムクーヘン。せっかくだし少し頂こうよ」 もちろんこれも、会食のリアリティを演出するための小道具に過ぎない。しかもこれは希乃が以前から食べたがっていたお店のものだ。二個購入して一つは希乃にお土産として持たせた。 不倫相手の好みを手土産と称して妻に食べさせようとするなど、我ながらどうかしている。 「美味しそうだけど、流石にこの時間に甘い物は罪悪感が。若い頃とは違いますし」 「たまにはいいじゃないか。僕が切るから」 「それならお言葉に甘えて」 恥ずかしそうに苦笑する霧子は少女のようで可愛かった。不倫をしてきた直後ではあるが、妻とのこういう時間をとても尊いと感じる。 霧子と希乃。どちらか一人を選べと言われたら、僕はきっと迷わず霧子を選ぶだろう。 「お茶でも淹れましょう」 ペティナイフでバウムクーヘンを切り分ける僕の隣で、霧子は紅茶の用意をしてくれた。こうして二人でキッチンに立っていると、付き合い始めた頃を思い出す。 「頼彦さん。次のお休みに、少し庭仕事を手伝ってもらってもいいかしら?」 「構わないよ。何をするんだい?」 「新しくシクラメンを植えようかと思って。今回は桃色じゃなくて真っ赤なシクラメンを」 「良いね。また一段と庭が色鮮やかになりそうだ」 食べる分のバウムクーヘンを切り分けてお皿に乗せる。霧子も紅茶の用意が終わったようだ。 「それじゃあ、いただこうか」 「深夜に夫とティータイムなんて、ロマンチックです」 妻とお茶をしながら、週末の庭の手入れの予定を話し合う。なんて満たされた時間だろうか。 不倫をしているという罪悪感はあるけど、霧子に知られていなければ何も起きていないと同じだ。僕らの世界は今日も平和に回っている。
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