お肉解禁

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 非人類系海洋知的生物群の諸族代表で構成される人口抑制委員会は、持続可能な開発のために約一万年にわたって維持してきた、ゼロ産児政策を全面的に撤廃することを緊急会議で決定した。宇宙元旦の満潮時刻から交配が許可される予定だが、それに先立ち、万物の霊長を自称し我が物顔で地表にのさばる人類の捕食が解禁される見通しだ。人類の骨と肉と脂をたらふく食べることで生殖活動に必要なエネルギーを満たして欲しいと同委員長は述べている。  世界人口が八十億を突破したため環境負荷が大きくなり、非人類系海洋知的生物群の人口抑制策が無意味になりつつあることが今回の緊急決定につながった、と別の委員はオフレコで語った。極端な人口抑制策のために一万年の長きにわたって次世代を生み出さなかったことへの批判もある。労働力不足を補うため現役世代に対し高額な抗老化剤を投与して働かせる政策は勤労意欲を低下させ生産性低下を招いたと財界から非難されているのは周知の事実だ。環境保護団体からも現状の施策は費用対効果の面で問題があり、長期的には限りある資源の浪費をもたらすと指摘されており、これらの提言が方針変更に寄与したとの憶測が流れている。  いずれにせよ、自粛が終わったのは喜ばしいというのが諸族代表に共通する意見だ。ただし人肉の解禁を危惧する声もある。飛翔型甲殻類系男子代表は「女子の取り合いで刃傷沙汰(にんじょうざた)になるのはやむを得ないとしても、八十億人もいるヒトの肉の奪い合いで怪我をするのは愚かなことだと自覚して欲しい」と、繁殖のパートナーを巡る争いなら命を懸けることも許容されるとの判断を示しながら一方で、摂食時には譲り合いの精神を持ち理性と節度と品位のある紳士的な行動を求めている。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  夫の入院中に義父と関係を持った貴女は、虚弱体質の夫では味わえなかった肉の喜びに震え、夫が退院してからも年上の男の体を貪り続けている。今日も幼い子供を病身の夫に預け夜だというのに家を出た。妻を亡くしてから独り身の義父の世話をするという理由を、夫は疑いもしない。その純粋さに憐れみと苛立ちを覚える。同時に、罪の意識も感じなくはない。だが、そんなこんなも義父に抱かれると忘れてしまう。何もかもが溶けてしまうのだ! 行為を終え裸のまま窓際に立つ。満月に輝く夜の海を見る。波音が聞こえたような気がした。海からは離れているのに、と貴女は不思議に思う。気のせいなのか? それとも、揺れ動く心の現れなのか……と悩ましく思う。その元凶である義父を振り返って溜息を吐き、涙を流す。もう離れられないと、心の底から思った。これは過ちでしかない。そうなのだけれども、この出会いは運命だという確信は揺るがない。そして、我が子を思う。  あれが、この愛しい男の子供だったら良いのに……と、どうにもならぬ想いに囚われていたせいで、キチン質の頑丈な翼二枚が背中の左右に生えた小学校低学年程度の大きさのエビみたいな生き物が窓の外に張り付いていることに気付かなかった。イセエビだったら物凄く高値の付きそうな翼あるエビは、その大きなハサミで窓ガラスを叩き割り、そのまま貴女の後頚部を鋭い爪で切り裂く。それから器用にハサミを使い、貴女の頭を引き千切ると口元へ運び、発達した顎で噛み砕いて咀嚼した。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  この男はナメクジかよ、と貴女は腹の中で罵った。貴女の腹の上ではナメクジみたいにネチャネチャした脂ぎった男が動き回っている。腹の下には船室のベッドがあって、その下には船底があり、そのまた下には深い海がある。貴女は自分が海底に沈む大きな貝となっているイメージを浮かべようとした。それは現実逃避である。お金のためとはいえ、こんな奴に抱かれる自分が情けないし、腹立たしい。さっさと終われ、重いんだよ! と自分に伸し掛かる男に唾を吐きたくなるが、高級クルーズ船にただで乗せてもらっている身分なのでパトロンの機嫌を損ねるわけにもいかず、ただただ「私は貝になっている」と思い込むことで気分を紛らわせていた。それにも限度があるので、自分が貝殻に乗ったヴィーナスとなった空想をして楽しむ。子供の頃はプリンセスになりたかったことを、唐突に思い出す。自分は今、幼い頃に憧れたプリンセスに、いやプリンセスっぽい何かになれているのだろうか? 金持ちしか乗れない豪華客船に乗っているのだから、それっぽいものになれてはいるのだろう。満月の夜のナイトクルーズですもの。貧乏だった子供の頃には考えもしなかったわ。ま、プリンセス全員がイケメンの王子様と結ばれるわけでもないっしょ! と自分を納得させて気分を落ち着かせたら、男を見る目が変わってきた。さっきより引き締まった顔になった感じなのだ。タイプの顔に思えてきたのである。貴女の全身が熱くなり、気分は異様に高揚した――あれ、もしかして、これって恋に落ちたってやつ? 私こんなナメクジ男にマジ惚れしたっての! 信じらんない! こんな奴、絶対に好きになんかならないんだから!  貴女はラブコメっぽい錯覚に陥っていたが、それは皮膚や粘膜から吸収された毒が脳に回ったことによる幻覚である。その毒は貴女の上にいる男が貴女に注入したものだ。貴女を愛している軟体動物のナメクジみたいな男は、海水に再適応したナメクジの知的な仲間に体の内側から食べ尽くされ、皮膚の薄皮を残すだけになっている。つまり真のナメクジ男と化してしまったのだ! 男を貪った怪物の次なる獲物は貴女だ。貴女の体内に注入した毒で何もかもを麻痺させ、抵抗できなくなったところを消化液の沁み込んだ舌で舐めまくり、柔らかく溶かしてから小さな歯で削り取って食べるつもりなのだ。メインディッシュが男で、デザートは貴女なのである。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  自分は夢をかなえた。それなのに、どうして死にたいのだろう?  タワーマンションのベランダから夜の都会を眺める貴女。超有名の美人モデルで会社経営者で、社会的地位は高く金には不自由していない。ミュージシャンの夫とは別れたが新しい恋人は二人もいるし、可愛い子供が一人いる。人生に不満は無い……はずだった。それなのに今、死にたくて死にたくて我慢ができなくなった。ベランダから飛び降りたくて仕方がないのである。いや、待て、早まってはいけない。子供を残して死ぬわけにいかない……と思うものの、こんな自分がいた方が子供の迷惑になると考え直す。  みんな、さようなら!  貴女はベランダの手すりを乗り越え、空に身を投げた。  それを下で待ち構えている生き物がいた。鯉に似た風貌の半魚人である。図体は鯨のように大きい。それでもタワーマンションよりは小さいので、上からだと小粒に見る――が、それは一瞬のこと。地球の重力に引き寄せられて貴女は地表にグングン近づき、それにつれて半魚人の姿が大きくなっていく――と書いている間にも落下し続け、空に向けてパカッと開けられた大口が今この瞬間、貴女の目の前にある。  貴女は半魚人の口の中にスポッと収まった。柔かい舌の上に落ちたので衝撃は分散され、首の骨は折れて絶命したものの百万ドルの保険が掛けられた全身が潰れる事態は免れた。貴女が床に落としたトマトみたいな姿となるのは、半魚人の喉元を通過する時だ。鯉型半魚人は鋭い牙も尖った歯も無いが喉に石臼のように硬くて丈夫な歯が有る。それを使って、どんなに硬い獲物も噛み砕き、すり潰して食べるのだ。貴女は半魚人の喉でペースト状になってから胃袋へ流れ落ちた。そこにはドロドロに溶けた先人の死骸が数人分ある。貴女の前にも餌食になった人間がいたのだ。粥状になった先客たちの肉汁に貴女の美身が合わさり、半魚人の胃袋がまた少し膨らんだ。  半魚人の犠牲者は貴女で最後というわけでもなかった。胃袋には、まだまだ食べ物の入る余地があるのだ。貴女を飲み込んだ鯉型半魚人は上顎から生えた二対の髭からタワーマンション上層階の住人へテレパシーを放射した。急に飛び降り自殺がしたくなる、そんな物騒なテレパシーだ。テレパシーを受信した反応があったら、その人物の心を操るため集中的にテレパシーを浴びせる。鯉型半魚人の超能力にかなう人間はいない。二分も経たずに上から落ちてくる。インスタントラーメンより手軽に新鮮で美味しくて滋養になる獲物が食べられるのだ。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  こういった具合で、多くの人類が食い殺された。それでも八十億人もいるのだから、一晩では食べ尽くせない。捕らえられたが殺されずに済んだ者は、それなりの数に上る。貴女も生き残った一人だ。ただし死ぬまで腹痛に苦しむ。人類より大きな脳を持つ超特大なアニサキス型の寄生虫が貴女の体内に息づいているためである。その宿主となった貴女は寄生虫と共に生きる運命なのだ。一種の夫婦といっていいだろう。さらに寄生虫の虫卵を皮下脂肪内で孵化するまで育てる役割も担っているから、母親みたいな存在でもある。出産時に母体へ大きなダメージを与える人間の赤ん坊と違い、寄生虫の子供たちは母親の皮膚を食い破る際に痛みを緩和し傷の治癒を促進する物質を分泌するから、安心して子離れの時を待つと良い。  しかし問題は、寄生虫の子供だけ繁殖させていれば後は寝ていて構わない、とはいかないことだろう。人類という種を絶やさないため、子孫を残す激務がある。貴女に種付けをする男は生殖細胞の中に人類の染色体を持っているから繁殖は可能だ。ただし子育ては全く手伝わない。他の女に種付けをしなければならないので、貴女に構っていられないのである。  人類の男は徹底的に殺され、ほぼ絶滅した。非人類系海洋知的生物群は人口大爆発で地球環境を破滅の危機に追いやった人類に対して、その人口を厳しく抑制することにしたためである。それでも人類という種の保全は、最低限ながら行うこととした。中を仕切った巣箱の中に多くの女性を入れ、種付け用の男を各部屋に巡回させるのである。平安時代の宮廷や江戸時代の大奥みたいなものを想像して頂ければ――いや、それほど優雅なものではないから、あまり似ていないかもしれない。  ちなみに種付けの成功率が低い男女は殺されるので、誰もが必死に交尾する。交配が成功し妊娠しても、最低限の栄養しか与えられないので上手く生育できるとは限らない。巣箱の中は排泄設備が不十分で換気も悪く妊婦が快適に過ごせる生活環境とは程遠い。そして死産も多く、無事に生まれても一か月を待たずに死ぬ赤子が、しばしばいる。  それでも人類の人口が急カーブで上昇しつつあることを、非人類系海洋知的生物群の研究者たちは驚きの目で見ている。絶滅の危機に瀕したとき生命は最も激しく燃え盛るのだろうと詩的な見解を表明する生物学者がいれば、住環境を少しでも良くするため狭い巣箱の中で同居人の間引きが横行しており、仲間に殺された犠牲者の死骸を生存者たちが食べていることから、人肉食のタブーが破られ共食いが一般化したことが栄養状態の改善に貢献し、それが出産ブームを後押ししていると考える家政学者もいて、意見は一致していない。
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