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1 Sion
「あっちゃー、降ってきちゃったか」
生徒用昇降口を出ながら、どんよりと垂れ下がった灰色の空を仰ぐ。
担任に「ちょっと手伝って」とか言われて職員室に行ってる間に、みるみる雲行きが怪しくなっていた。先に帰ったやつらは無事駅に着いたのかな。
駅まで徒歩15分。確実にずぶ濡れ、という勢いで降ってきていた。すっかり葉桜になった桜の木もなんとなく項垂れて見える。
「つーか、午後の降水確率40%だっただろ。見なかった?佐伯」
突然話しかけられて、びくっとしてしまった。
オレを見下ろす長身の男。
真っ黒な短髪。
キリッとした眉に、くっきりとした二重のやや彫りの深い顔立ち。
がっしりとした、いかにも鍛えてます、という広い肩に厚い胸。
「羽村」
羽村匡也。
彼とはほんの数日前にクラスメイトになった。
「佐伯、俺の傘に入って行く?昨日の百円のお礼に」
そう言いながら、羽村は鞄の中から折り畳み傘を出して広げていく。折り畳みなのに結構大きい。
男同士で相合傘か、と思わなくはないけれど。
「あー、うん。じゃあそうする」
雨は止みそうにないし「お礼して」って言ったのオレだし。
そう思ってオレは羽村を見上げて応えた。
羽村はオレのその返事を聞いて、こくりと軽く頷いた。
昨日の昼休み、ちょうど自販機の前を通りかかった時、チャリンという音がした。「ん?」と思ってそっちを見たら羽村が「うわっ」って顔をして自販機の下を覗いてた。
こいつの腕の太さじゃ自販機の下には入んないんじゃないの?
そう思ったから声をかけた。
「はーむらくん。落としたの、十円?百円?」
肩にポンと手をかけると、羽村はびくっとした。
「…百円。つか俺の名前…」
アーモンド型のやや茶色い眼が驚きを伝えてくる。
「おけ、百円ね。あとオレね、人の名前覚えんの得意なんだ」
自販機の下を覗き込むと、少し奥まった所に銀色に光る百円玉が見えた。
手を差し込むと指先にギリ触れた。指の腹でジリジリと引き寄せていく。
あとちょっと。
「取れたっ。ほら羽村くん、百円」
拾った百円玉を羽村に手渡しながら言うと、
「サンキュ。あ、あと「くん」いらねぇから」
と言われた。そして羽村は眉を歪めて「袖汚れてるぞ。ごめんな」と言った。
袖の汚れを払いながら、そういえばこいつはオレの名前覚えてんのかなって思った。
「助かったよ、佐伯。百円玉これだけだったんだ」
そう言って羽村はふわりと笑った。
やっぱ覚えてたか。
「そりゃ良かった。今度何かお礼して」
そんな事を言いながら、オレは羽村に手を振った。
そのお礼が、今。
駅に向かう雨の道を、羽村の傘に入って歩いている。
「佐伯ってもしかして、もうクラス全員の名前覚えてんの?」
傘の中は少し声が反響して聞こえる。
「覚えてるよ。得意なんだ、名前覚えんの」
ほんとは、ちょっと違う。
「佐伯の名前、男であの『詩音』はちょっと珍しいよな」
羽村の低い声が降ってくる。
「はは。珍しいっしょ?」
だからみんな、すぐにオレの名前を覚える。
佐伯詩音。
自分の名前を知っている人の名前を知らないのは、なんか嫌だった。なんか申し訳ない。だから頑張って覚えるようになった。
まあ、そんな裏話誰にも言わないけど。
「羽村もまあまあ珍しい方じゃね?」
「そうかもなあ」
頭上から聞こえる羽村の声は、低くて心地よかった。
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