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私はここに釣り糸を垂らしに来たのであって、釣りをしにきた訳ではない。
この一路川は私の家から歩いて十分ほどのところに位置する。特段変わったところもない河川である。流れは穏やかで水は清く、水位も浅い。そこそこ大きな川ではあるが、国から天然記念物に指定されるような貴重な生物もおらず、かといって特定外来生物にあえぐような状況でもなくごく一般的な生態系の根付く河川である。ごく一般的であるからして、観光客はもちろんのこと地元民もわざわざ出向くこともないために、非常に静かな時間が流れる場所である。
私が釣りを趣味にし始めたのは五年前のこと。子供の手が離れ、程よく暇ができたのを機に道具を一そろい用意して臨んだが、この五年で魚が釣れたことは一度もない。一路川でしか釣りをしたことがないからだ。早い段階で一路川の不漁具合には気づいていたが、釣り場を変えることは一度もなかったし、餌やルアーにこだわることもしなかった。早い話、魚を捕ることに興味がないのだ。
この川の流れのように流れゆく、穏やかでまったりとした時間を感じるのが好きなのである。
赤い浮きがゆらゆらと水面を漂う。川は朝日をゆらゆらと照り返し、砂金を流しているように煌めいている。さらさらと流れる水の音を聞きながらぬるい陽光を浴びる朝七時。あたりには雀のほかに動く影もなかった。
簡素なアウトドアチェアに腰かけ、誰に聞かせるでもない鼻歌を歌う。そうしているだけで気分がいい。
何ものにも妨げられない静かな時間が心地よく過ぎていくのを楽しんでいたところだった。
釣り竿を握る手に確かな手ごたえが。前腕に力を籠める。何かがかかった。
今まで釣り針に何かが引っかかることが無かったために少し面食らったが、とっさにリールの存在を思い出した。必死になって慣れない手つきでリールを巻きとって釣り竿を上に引き上げた。
ざばぁという音とともにソレは引きあがった。目をやって唖然とした。それは古めかしいやかんであった。取っ手のところに釣り針が引っかかっている。
(こんな漫画みたいなことがあるのか……)
表面に細かい傷がおびただしい量ついて、少々輝きを失いくすんではいるが、穴も欠けもないやかんであった。水がたっぷり入っているらしく、ずっしりと重い。前腕に限界が来そうであったため、地面にそっとそれを置き、釣り針を外した。
額に浮いた汗をぬぐった。
(魚でもあるまいし、川にリリースするのは違うだろう。)
この手の拾い物は初めてであったため、どうしたらいいか見当もつかない。とりあえず私はやかんの取っ手を持ち、内容物を出すためにそれを傾けた。目を見張った。
私はてっきり透明な清水がこんこんと注がれるのだとばかり思っていたが、注ぎ口から零れ落ちたのは真っ黒のコールタールのような液体。少しとろみのついた黒々とした液体が流れ出て、河原の石がまるで石炭のように染まってゆく。それに伴ってやかんの中身は減り、軽くなってゆく。
(こんなに黒い液体を、河川の近くで流していいのだろうか)
注ぐ手は止めないまま、私は不安に駆られた。
そもそも川の底に沈んでいたやかんの中になぜこんな液体が入っているのだろうか。やかんの中から流れ出さなかったのだろうか。なんだか恐ろしく奇妙に思われた。
やがてやかんの中が完全に空になると、あたりの地面は飲み込まれそうな黒に染まった。臭いもなく、靴にべたつくような感触もない。私の知るどの黒い液体とも違う。
(……どうしようか、この液体)
やってしまった後で、こんなに河原を真っ黒けに汚してしまってよかったのだろうかと、不安になった。すると、異変が生じ始めた。先の黒い液体が徐々にひとところに寄り集まって、一つの泥団子のように収束を始めたのだ。そして見る間に私の足元に野球ボールほどの小球が生じたのである。
(なんだなんだ……!)
ただならぬ様子に少し後ろに引き下がる。よく見ればその小物体はぷるぷると小刻みに震えている。そしてその微細動を保ちながら、ソレはゆっくりと浮き上がり始めた。
地上から二メートルほどのところで上昇を停止すると、その黒球は大きな一つ目を開いた。紅く、禍々しい瞳であった。
「な、なんだ……」
およそこの世のものとは思えないその異形に、思わずたじろいだ。その小球はふよふよと上下にゆっくりと漂いながら、こちらを瞬きもせずに見つめてくる。
「何者なんだ。あんたは」
そう尋ねると、その瞳は意地悪そうに目を細めた。そしていかなる方法でそうしたのかは分からないが、ソレは喋り始めた。
「アンタこの俺にしゃべりかけたね」
耳障りなだみ声だった。聞くたびに鳥肌が立つような不気味な響きを持っていた
「この俺にしゃべりかけてきたってことは、願いを三つ叶えてもらえる権利を得たってことだ」
「……どういうことだ」
精一杯威厳を失わないように胸を張って聞くも、その瞳はより一層目を細めて、嘲るような口調で話を続けた。
「願いを叶えてほしいのなら、願いをいうんだな」
そういいながら私の頭の周りをくるくると回った。
「お前は何者なんだ」
「それがお前の願いか?」
「違う、そうじゃない」
「願いじゃないんだったら、答えられないな」
そういって独楽のようにくるくると回った。
どうやら言われた願い事を叶えるだけの存在らしい。まともに話をするためには、願い事として聞くしかなさそうだが……。少々もったいない。
「……じゃあ、お金をくれないか」
「いくらだ」
「そうだな……。百万円でどうだろうか」
パッと思いついた額を言ってみれば、「お安い御用だ」と奴は答えた。
「お前のクーラーボックスを覗いてみな」
言われるがままに、いつも水も入れずに形だけで持ち歩いているクーラーボックスを開くと、福沢諭吉と目が合った。紙帯に巻かれた一万円札の束が無造作に置かれていた。手に取ってみたところで百枚あるかどうかは定かではないが、ぱらぱらとめくった感覚が脳を緩く麻痺させる。なにはともあれ、現金がこれだけあることに気分が高揚する。
(おそらく力は本物だ)
そう直観した。見たところ、お札のシリアルナンバー的なものも一枚一枚が異なっている。そういう気配りもできる優秀な能力だ。
「次の願いを言いな」
そう催促するだみ声は未だ耳障りだが、気持ち好意的に思えてきた。私はここでようやく願いを真剣に考える気になった。
「それじゃあ……」
少し考えながら口にした願いは、子供のころからのささやかな夢であった。
「僕を魚にしてほしい」
「そんなことか、承ったぜ」の声を聞いた次の瞬間に、くらりとして視界が暗転した。
気が付けば皮膚がひんやりとした感覚に包まれた。息が吸えない。視界が嫌に歪んでいる。中央が膨らんだような、そう、魚眼レンズの視界である。あたりには水草、砂利、小魚、空き缶、ザリガニ。ここは川の中か?ならば水面に浮上しようと手を伸ばそうにも、その手がない。依然として息が苦しい。
ここで自分の願いを思い出した。私は魚になったのだ。先ほどの化け物が私を魚へと変身させたのだと思い当たった。
(なるほどエラ呼吸か!)
そう思えどやり方が分からない。人間として人生を過ごしてきた私に、エラ呼吸のノウハウは皆無であった。
金魚のように水面に顔を出して呼吸をしようにも、体が思うように動かない。ヒレの扱いに全く慣れていないのが災いし、もがもがとあぶくを立てながら水の中を暴れまわるのみになる。
(魚になったからと言って、泳げるようにはならないのか……!)
自分の浅はかさに気づき、「私を人間に戻してくれ!」と叫べども、魚の声帯と舌では声が出ない。水を飲んでさらに自分を苦しめるのみ。
視界が次第に薄暗くなってゆく。視界の端にちらと映ったヤツの目が、意地悪そうに細められていた。
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