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経理部には、無事に領収書を提出できた。浅川さんにはちょっぴり鋭い視線を向けられたけど、まあ、結果オーライ。
営業フロアに戻ったら、甲斐先輩は外回りに出てしまっていた。
仕方ない、帰ってきたら捕まえて聞いてみよう。
俺は今日の予定を確認するべく、手帳を開いてデスクの椅子に座った。
そのとき、今度は営業事務の女子社員2人から、声をかけられる。
「牧田さん、今日って戻り早いですか?」
「え?うーん、たぶん定時までには戻れるけど」
「ほんとですか?あの、そのあと時間ありません?」
「なんで?」
「良かったら飲み会行きませんか?私たちと、あと他の会社からも何人かくるので」
2人は一応、部長が席を外している時を見計らって声をかけてきたようだ。
……合コンか。
俺はちらりと営業ボードの甲斐先輩の欄を見た。
ーーー先輩、今日の午後はアポ3件か…それだと定時過ぎそうだし、話せないかな…
俺はそう考えたあと、2人の女子社員ににっこり微笑んで伝えた。
「いいよ、行く」
*****
俺は牧田楓。ついこの間、27歳になった。
27。やばい。もう三十路が見えてきそうだ。全然実感ない。別にいいんだけど。
仕事はやれてる方だと思う、ミスはたまにするけど、コミュ力には自信があるし、運もいいし、見た目もまあまあ良くて、大体のことはうまくいく。
周りの奴らはぽつぽつと結婚したり、する予定だったり、彼女と同棲したりしてる。
いいな、羨ましい。
と、思いながらも、別に俺自身は結婚とかに興味ない。
友達が幸せになるのは、めでたいことだけど。
仕事終わりに行った今日の店は、なかなか良かった。
料理もおいしかったし、店員の態度も良い。
結局、参加したのは男は俺を入れて4人、女子はうちの社員2人を含めた4人だった。
帰り際、うちの社員たちからはお礼を言われ、他社の女性からは連絡先を聞かれそうになったが、うやむやにして手をふって帰路についた。
とりあえずうまい飯が食えたから、今日は満足だった。
「あー、なんかちょっと寒いな」
季節は冬に差し掛かっている。
今日はコートを着ていない、そろそろ毎日持ち歩くか、と思っていると、向かい側の歩道に見慣れた背格好のスーツ姿の人が歩いていた。
「あっ……先っ」
輩、と言おうとした言葉は、その人が右に方向転換したときに見えた横顔と一緒に消えた。
……人違いか。
俺は、ふぅっ、と息を吐いた。
21時、こんなところにいるわけないか。
俺はスマホを取り出し、甲斐先輩のライン画面を開く。
ーーー声が聴きたい。
電話のマークを押すか押さないか、ギリギリのところで迷って、やめて、かわりに一言文字を打った。
『今日はありがとうございました!今度の週末、先輩の家行ってもいいですか?』
*****
『突拍子もないな』
帰宅した俺は、シャワーを浴びて寝巻きに着替えた。そして、ぴこんと光ったラインを読む。
ーーー2時間も待たせた返信がこれかよ。
しかも既に23時、今までなにしてたんだ?この人。
俺は冷蔵庫からビールを持ってきて、プシュっとあけた。上品な店の上品なカクテルより、缶ビールの方が俺はいい。
『明日の金曜の夜でもいいですよ』
『来る前提か』
『はい、先輩一人暮らしですよね?』
『そうだけど、なにしに?』
『今日の領収書のこと、聞きたいから』
そうラインを打ちながら、俺は頭の中で先輩の顔を思い浮かべる。
今日は、助かったな。
先輩はなんだかんだいって、入社当時から、俺のことを助けてくれる。
教育係だから当然だろって言われたそうなんだけど、それだけじゃない。
社会人になって、初めて、俺の一番近くにいた大人は、先輩だった。
「…返信、こねぇな」
時刻は23時半になろうとしている。
明日は金曜日、あと1日仕事がある。
寝落ちしたかな。
10分ほど鳴らないラインに諦めを感じて、俺はビールを一気に飲み干し、寝支度をしに洗面所に向かった。
ーーー明日、だめかな。明後日でもいいんだけど。いつでも。いや、でもやっぱ明日、明日、先輩と一緒に、いたい。
俺は、歯磨きをしながらそんなことを考えていた。
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