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金曜日。終業後、俺は特に予定はない。
周りは仕事よりもプライベートが気になり始める定時間近の17時30分。
俺はデスクで頬杖をつきながら、ぼんやりとパソコンを眺めていた。
ーーーやっぱり、そうだよな。
たとえ少しの期間でも好意を寄せられ、付き合った相手だ。
俺から見たら最悪な女でも、先輩には違って見えているんだろう、情もあるだろうし。
ーーー会社の後輩の…しかも男より…、そっちの方が、いいよな……。
俺は、先輩に連絡する勇気がなかった。
もし、本当にあの女が言った通り、終業後にごはん行ったりするのなら、きっと俺の存在は邪魔になる。
「ーー…さん、牧田さん?」
「!っ、あ…。あ…野山、どうした?」
「あの…大丈夫ですか?もう定時ですけど…顔色悪いですよ」
定時。…マジか、気づかなかった。
野山に話しかけられ、デスクから顔を上げると、周りはすでに帰り支度を始めていた。俺は慌てて立ち上がる。
「あ、わりぃ、ありがとう野山。大丈夫、ちょっとぼーっとしてただけだから」
「ほんとですか?…帰れます?」
「あぁ、心配かけて悪いな。帰るわ」
心配してくれた後輩にもう一度サンキュ、と言って俺はデスクを離れようとした。
そのときーー事務所の入り口から人が入ってくる。
「あ!甲斐さん、」
「!」
今、戻ってきたんですね、と野山が俺に言う。
ーーそうみたいだけど、俺には関係ないし。
野山の言葉に俺は曖昧に頷き、先に帰るわ、と言って歩きだした。
「え…ちょ、牧田さん!?」
「ーーー牧田?」
ーーー呼ぶなよ。
俺は、荷物を持って、早足で、事務所を出た。
外回りから帰ってきた先輩の顔は、見れなかった。ーー見る必要もない、だって、なんの約束もしてないし。
エレベーターに乗り込み、逃げるように会社から出た。
「……っ」
泣くな、ばか、俺。なにしてんだ。
まだ、会社出たばっかりだ、せめて、駅の人混みに紛れるまで、待て。
早足で駅に向かう俺を、少しして、後ろから呼び止める声がした。
「ーーー牧田っ!」
「…っ!」
俺の、意識とは対象的に、身体があの声を求めているかのようにビクリと止まる。
振り返らなくても、その声が、先輩のものだとわかった。
「……なぁ、牧田………帰んの?」
「………もう、仕事終わったんで」
「そうか……」
背中に近づく先輩の気配がする。
ーーーなんで、わざわざ追いかけてくるんだ。
歩を進めようとした俺の右腕を、先輩が、力強く引っ張って、止めた。
「っ、なんだよ、離せ」
「いや、お前こそ、なんなんだ、昨日から」
「ーーーなんだ、じゃねーよ!………わかんねぇんなら、もう俺に構うなよ……」
ーーーあぁ、だめだ。もう限界だ。
誤魔化しきれない、もう。
もうこれ以上、先輩に甘えて、自分の気持ちを制御し続ける自信がない。
答えをもらってしまったら、もう側にいられなくなるのはわかっているのに、もうはやく答えを出して、楽になりたい。
俺は、先輩の手を振り払って、その場にみっともなくしゃがみこんだ。
「牧田…」
「なんで…俺は、当然のことが、当然のように…できないんだ…っ」
ーーーこんなに好きなのに。
こんなに好きな相手がいるのに、簡単に告白さえできない。デートすら、簡単に誘えない。
俺が男だから、同じ男を好きになるのは、普通じゃないから、だから。
1年ぶりに会った、ほんの少し付き合っただけの元カノの存在にさえ、負けてる。
「……牧田、おい」
「…………」
「おい、一回、顔上げろ」
「…………」
「なあ、牧田」
ーーーこんな顔、見せられるか。最悪だ。みっともない。
俺は、首を左右に振り、鞄を抱えてしゃがみこんだまま。
何分そうしていたかわからなくなった頃、別の声が聞こえてきた。
「あ、甲斐さん、お疲れ様です」
「…野山、お疲れ」
「え、っと…あれ?もしかして牧田さん?えっ、大丈夫ですか?」
野山が俺のもとへ近寄り、顔を覗き込もうとする。
「やっぱり体調悪かったんですか?さっき、顔色悪かったですもんね」
ーーー違う、違うんだ、野山。
心配してくれてありがたいけど、俺は今、先輩とーー先輩への気持ちに、終止符を打とうとしているんだ。
そんな俺の事情など知るはずもない野山は、病院行きますか?と俺の背中をさすりながら聞いてきた。
「いや、ごめん、野山。ありがとう…大丈夫だから」
「えっ…ほんとですか?でも…」
大丈夫大丈夫、と言って俺は、これ以上後輩に心配をかけるわけにいかないと思い、立ち上がったーーーその時。
「あっ…!」
「えっ、甲斐さん?!」
右腕が。
力強く引っ張られ、俺の身体は先輩の腕の中へと吸い込まれていきーー抱きしめられていた。
「ーーありがとな、野山。こいつは俺がちゃんと家まで送るから」
*****
恋をすると、人は多少の差はあれど、冷静ではいられなくなる。
今の俺は、多少どころではない。
全身が苦しく、どうしようもなく溺れている。
「ちょ…っ、先輩」
「………」
「いっ…痛いって!腕、…離し、てっ」
「……うるせぇ、黙ってろ」
「ーーーっ…」
帰り道。
先輩は俺の腕を掴んだまま、離してくれない。
ここ最近、何度も来た、先輩のマンションの入り口前までくると、俺はどうしようもなくなり激しく抵抗した。
だけど、あと一歩、あと一歩が無意識のうちに抵抗をやめてしまう。
ーーーまるで先輩を好きになった俺が、負けだとでもいうように。
エレベーターで、先輩の家の前まで来て、先輩が開けたドアの隙間に押し込まれるように、中に入った。
そして、先輩も中に入ったと思うと、閉まった玄関の壁に、俺は、ドンっと背中を押し付けられてーーー
「…!………っ」
あつい唇。俺と、先輩のそれが重なっている。
先輩は、俺を壁に押し付けながら、角度を変え、何度も何度も唇を押し当てた。
息つく暇もなく、首もとで締められたネクタイが邪魔だ。
「せ、…ん、…っ」
「ーーーっ…牧田」
「は………なんで」
ようやく唇が離れて、俺も、先輩も、息が上がっている。
状況が追い付かない。なんで?なんで、先輩は、こんなこと。
「牧田…」
「…先輩、」
「勝手に、ひとりで、失望した気になるなよ……」
え?と、俺は顔をあげて先輩をみると、先輩はどこか悔しそうな表情をしていた。
そして、今度は優しく俺の頭を撫でて、俺の、瞳に溜まった涙を親指で拭った。
「昨日の…森のことだろ、お前が気にしてたのは」
「……………」
「前にも話したけど、森とはほんとにすぐ別れた。昨日の連絡だって、全然意味なんてないんだよ」
「………だ、…って、ごはん行く、って……言ってたじゃん。だから……俺は邪魔だろうな、って思っ…て」
「おい、俺がいつ飯行くっつった?あっちが一方的に言ってただけだろ」
「………ラインきてた」
「きただけだって。ちゃんと断ってるから。なんなら見ていいぞ、ライン」
先輩はそう言って、ほら、とスマホを俺に差し出したけど、俺は首を横に振った。
そして、もう一度、今度はちゃんと、先輩の顔を見つめた。
「先輩…………ごめんなさい」
「うん、」
「俺、女であるあの人が羨ましくて……俺も女だったら、先輩に…あんなにも簡単に、デート誘ったり…告白できたりするのに、って思って……俺は、俺だって本当は…先輩にちゃんと気持ちを伝えたいのに………」
「ばかだな……」
一度溢れた想いはもう止まらない。次から次に。際限なく、溢れでる。
泣き出す俺を、先輩はいつもの呆れ顔で見て、そのあとに抱きしめて言った。
「お前はお前のまま、いればいいんだよ」
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