時計商との出会い

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時計商との出会い

 今も、駅の地下道を、大勢の突進者を避けながら私は歩いていた。金曜日でもないのに、アフターファイブにこいつらどこから湧き出てきて、どこに行くつもりなんだよ。全く蟻か! まあそれは兎も角としてもだ、邪魔な歩き方や危険な歩き方をしないでくれないか?  ああ、まただ。また、私だけが避けている。なぜ私の方だけが避けなければならないのだ。お前も少しは避けろよ。それとも、私が避けるのを待っているのか? 避けたらしめしめと思っているのか?  確かに、私は並みの身長で普通の体格だ。ハンサムでもなければ、みすぼらしい恰好も豪華な恰好もしていない。そんな私だから、馬鹿にしているのか?  いっその事、次は避けずにぶつかってやろうか。突進してきた奴を跳ね飛ばしたら気分良いだろうな。逆に、跳ね飛ばされたら大げさに扱けて叫んでやろうか。  ん? さき程から、私の左隣が薄暗い様な気がする。そう思った時だった。 「この時計、使われますか?」 そちらからいきなり声が聞こえたので驚いた。人がいたのか!? さっきから、私の横を同じ速さで歩いていたのか?  それにしても、真っ黒だな。黒い帽子、黒いコート、顔は・・・・襟を立てているからか、見えない。 「一度だけ、人生を試しに生きてみることができます。そして、気が済んだら、元の時刻に戻れます。」 こいつは一体、何を言っているんだ? 意味が解らない。  私は無視してその小男を振り切ろうとしたが、そいつはいとも容易く私に付いてきた。速く歩いているのだが、ピタリとついてくる。何者だ? 「今まさに、嫌な事がありましたね?」 「!」 「それも、今日だけではないですよね。」  一瞬私の足が止まった。しかし、考えてみると、人は誰しも1日1回は嫌な思いをしているのではないか。そうか、この男は、鎌をかけているのだな? 時計だって? 何か私の弱みを見つけ出して、変わった時計を高値で売ろうとしているに違いない。 「そう、疑ってばかりでは、疲れますよ。毎日、毎日、人混みを避けながら人とぶつからずに通行するのが、嫌になったんですよね。」 私の足が止まった。驚いた。なぜ判ったのだ?  私がその男を睨みつけていると、その男が俯き加減のまま何かを差し出してきた。 「申し遅れました。私、こういう者です。」  それは名刺だった。真っ黒な恰好をして真っ黒な手袋をしているので、白い名刺が妙に眩しかった。 『トキノ時計店 ライフシミュレーター 時野正』 時計店? ライフシミュレーター? 意味が解らないぞ?  そして、名前の右にこう書かれていた。 『一度だけ、自分の思い描いた人生をお試しいただけます。』 私はいぶかし気に、その名刺とその黒ずくめの男を見比べていた。  するとその男は、落ち着いた様子で私を誘ってきた。 「立ち話もなんですから、こちらにどうぞ。何、ご心配には及びません。そのあたりにある喫茶店に入るだけです。」 「え、あ、いや・・・・・」 断り切れない私を見て、その小男は何だかニヤッと笑った様だったが、あいにく地下道でその男の顔は影になっていて、よく見えなかった。
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