リターナブルウォッチ

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リターナブルウォッチ

 地下道の右サイドにあった喫茶店に入った。時野と称する小男に付いて入ると、中ではピアノがゆったりとした旋律を優しく奏でていた。はて、こんな喫茶店が、この辺りにあったかしら? 「こちらにどうぞ。」 男の手の指示した椅子に、私はまるで催眠術にかかった様に座った。 「こちらでは焙煎ホットコーヒーが美味しいそうですよ。ご馳走いたします。」 その男はそう言って、ウエイターにそのコーヒーを注文した。  それにしても、この男は変わっている。店内でも帽子やコートを脱がないのだ。おかげで顔がよく見えない。そんな事を考えていると、小男は私に静かに話しかけてきた。 「人生、いろいろ皆さんご不満があるものです。あなたの場合には、どうやら、避けなかったり邪魔な通行をする対向者に反感をお持ちの様ですね。」 う~む、この小男はどうやら知ってるのだな? まさかどこかで、私が人を避けた後にその人を振り返り、舌打ちをして独り言を発する場面でも見られたのだろうか? 「しかしですね、だからと言って、人を避けさせる様な歩き方をしてみたいというのは、感心しません。そんな事をすると、いずれ人や者にぶつかって、大変なトラブルを引き起こしかねません。あなたのように衝突を避けて歩くのは賢明だと思います。それができるのは、素晴らしいことだと思います。」 こいつ、学校の教師でもしているのか?  注文したコーヒーが来た。なるほど、確かに良い香りがする。と言うか、特徴的な香りだ。心を揺さぶられる様な気がする。 「どうぞ、おあがり下さい。」 私は言われるがままに、その飲み物に口を付けた。目を見張る様な味ではなかったが、何か懐かしい味がして心地良かった。 「ですから、あなたは、今のままで良いのです。」  それを聞いて、驚くべきセリフが私の口から出てきた。 「しかし、避けるにしても危ない場面が沢山あったんです!」 「ほう?」 「私はただ歩きたいだけなのに、邪魔が入るんです。真っすぐ歩かせてくれないのです。」 「ふむ。」 「対向者が進みたいのは解りますが、私だって進みたいのです。だったらなぜ、私だけ避けなければならないのですか?」 私は、不満をぶちまけ始めていた。  私が一通り思いを伝えると、その男は静かに語りかけてきた。 「なるほど、良く解りました。では、やはりこの時計を1つお渡ししましょう。」 「時計、ですか?」 その男は、黒手袋をした右手で小さい時計を手渡した。  それは、ストップウォッチの様でもあり、不思議の国のアリスに登場するウサギが持っている時計の様でもあった。 「先ず、赤いボタンを押します。すると、現在の時刻が記憶されます。これがアンカーになります。」 「アンカー?」 「はい。あなたは、この時刻に帰って来なくてはなりませんからね。目印ですよ。」 「はあ。」 「それから、あなたは人を気にせず堂々と歩いて、場合によっては周囲の人を蹴散らす、という人生を、1回だけお試しください。」 私は思わず、ブルっと震えた。 「予想するのは意外と難しいのです。人は、体験すると満足いくものです。あなたが満足いったら、この時計はあなたをこの時刻まで連れ戻してくれます。そして、この時計は消失します。」 「ほう・・・そんな良い物が、あるのですか。」  普通に考えると、こんなSF小説の様な物がある訳などなかった。しかし、その場の雰囲気とでもいうのだろうか、私は洗いざらい不満をぶちまけて、この男の言いなりになっていた。 「また、もしその試されている人生が失敗だと解った場合、この青いボタンを押してください。あなたは直ちに今に戻れます。勿論、時計は消失します。」 聴けば聴くほど、こんな素晴らしい物はなかった。 「お・・・・お幾らですか?」 小男はまた二カッと笑った様だった。 「代金は不要です。もちろん、あなたが高額所得者であれば請求するところですが、失礼ながらあなたの年収は300万円程度ですよね。」 その通りだ。この小男は、何でも私の事を知っているのだ。 「し、しかしそれではあなたが・・・・」 「あなたはお優しいのですね。私のことは大丈夫なので、どうかお構いなく。」 「は、はあ・・・・」 それでも私がその時計を受け取り兼ねているのを見て、小男はその時計を私の腕にはめてしまった。 「無料と言う事に抵抗感があるのであれば、そうですね。このコーヒー代を驕って頂くというのはいかがでしょうか?」 「あ、ああ、そのぐらいであれば・・・・900円ですね、是非そうさせてください。」 私は、いい様のない安堵感に襲われていた。只と言うのは、やはり気味が悪い。それに、何だかご利益もなさそうである。  私たちはその後しばらく雑談をした様に記憶している。そして約束通りコーヒー代を出して、私はその時計を腕にしたまま外に立っていた。小男は、いつの間にかいなくなっていた。
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