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見上げる場所が違えば、天空の星々もまた、常とは違った煌きを見せる。
この土地から見上げる星の流れは、彼女の生まれ育った土地の景色を思い出させた。同じ南方といってもあちらは不毛の山岳地帯、こちらは風光明媚な避暑の宮と周囲の環境はあまりにも違う。それでも星の並びだけが似通って見えるのだから、まことに世界とは広く奥深いものなのかもしれない。
ひっそりと静まりかえった夜陰の片隅に、小さな灯りが燈された。離宮内のどこかの扉が開かれ、閉ざされる。
「お前……」
「久しぶりね、黒宰相」
脚を止めた若者――グリジア王国宰相ルーカスにむかい、オウカはゆるりと微笑んで見せた。
オウカはかつて、傷を負って王家の森で倒れていた彼を拾い上げ介抱した過去があった。その後も何度か顔を合わせている。一度は近衛騎士隊長の異母姉の邸で、彼とテラが再会した時。そしてもう一度は、彼らの婚礼の宴の時に。
「驚かないの?わたしがカストレーデにいること」
「……大方、予想はついていたからな」
とはいえ、オウカが戦闘者のギルドとしてここにいるのか、それとも旅芸人の一座としてここあるのかまでは知らないはずだ。それを問いかけることもせず、黒髪の若者は軽く腕を組み、自分より低い位置にある女の顔を見下ろしてみせた。
「――何の用だ?」
「用って訳じゃないけど。貴方と近衛騎士副隊長の噂……あれ、わざとでしょう?」
オウカの言葉に、若者の眉が跳ね上がる。
「どうして、俺にそんなことをする必要がある」
「そうすることであの娘を守ろうとした。そして今も守り続けている。違う?」
無理を通してテラを妻に迎えたことは、黒宰相にとって諸刃の剣にも等しい賭けだった。二年前、彼に異心ある者は一様に考えたに違いない。宰相が自ら王族の籍を下ってまで欲した踊り子。彼女を手に入れられれば――傷つけ害することが出来たなら、黒宰相を掌中に収めることができると。
完全な憶測だが、多分間違ってはいないはずだ。感情を殺した瞳でオウカを見据えた後、ふとルーカスは笑った。
「――驚いたな」
「……」
「まさか、誰かに気づかれるとは思っていなかった」
人に弱みを握られるのは好きではないんだ。言って口許を歪めて、また笑う。以前出会った時にも思ったが、この男は意外とよく笑う。苦笑でも哄笑でもない。泣くことも怒ることも忘れた人間のただ習い性となってしまった薄っぺらな笑みで。
――この人、あの娘の隣でならきちんと笑えたのだろうか。
正直に言うなら、オウカはルーカスが嫌いだ。あの時、血塗れで冷え切って虫の息で倒れていた男に止めを刺しはしなかったけれど――そして今はもう、剣を握って殺してやろうとは思わないけれど、オウカにとって黒宰相は仲間と大切な人の仇だ。だが自分と同じように、還らぬ人を待ち続けた娘であるテラには、幸せであって欲しいと願う。例えそれが、気のよい仲間と想ってくれる相手に恵まれ、自分ひとりが幸せになっては申し訳ないという罪悪感に基づく感情であったとしても。
「あの娘、今とても無理をしているわ」
それが好いた男の為であるならば、当の本人は無理を無理とは感じていないのかもしれない。だが先に出会った時の憔悴しきった顔も哀れだったが、今現在の張り詰めきった横顔はさらに痛々しかった。緩むことを忘れて、いつか千切れてしまいそうに見える。
「あの娘はあなたの側じゃなきゃ、休めないのよ。それに――」
それにきっと、多分。その先を告げることを躊躇ったのは、今、自分と対している男の瞳がオウカの想像以上に、冷たく凍てついて、すべてを拒絶しているように思えたからだ。
「……あと、少しなんだ」
夜の闇と同じ色をした瞳はオウカをすり抜け、その背後にある、彼の目にしか映らぬ何かに向けられている。少しは動揺させられるかと思ったのに、少なくとも見た目上は、小波一つたてられなかったらしい。
まったく、テラはこんな何を考えているかわからないような男のどこかいいのだろう。わたしならごめんだ。わたしはもっと純粋で、心の内を明かしてくれる人がいい。亡くなってしまったあの人のように。今、彼女の側にいて、誰よりも彼女を想ってくれるあの彼のように。
「あと少しで、すべて終わる」
一体、この男は何を終わらせる気でいるのだろう。
結局、オウカは気がつかなかった。
オウカとの会話半ばから、ルーカスの拳が関節が浮き出るほど強く握られていたことも。彼女が立ち去ると同時に吐き出された、一国の宰相らしからぬ感情を剥き出しにした呟きも。
「無理している……?――わかってんだよ、そんなことは……!」
異変が起こったのは、異国の宰相が離宮に招かれて二日目の夜のことだった。
それははじめ、西門にある王家の備倉から火の手が上がることからはじまった。倉には昨秋収穫された穀物が貯蓄されている。王家の倉で余剰分を管理して値崩れを防ぎ、飢饉のおりには解放して民を救う。王家の備倉に火をつけた罰当たりな賊徒はすぐに逃げ去って、消火作業と捕縛の為に、カストレーデ離宮の大半の兵士が西門に集結した。
その数刻後、北面からも火の手が上がり、もともと数の少なかった兵士の数はさらに分散する。
サイファ公国に伝わる正史も、帝国史書及び、周辺国の歴史書にわずかな記載を残しているグリジア王国史も、その日起こった事件の詳細を記してはいない。
ただ当時カストレーデ神殿に滞在し、後にサイファ公国大神官にまで上り詰めた男の日記においてのみ、わずかながらその事件のあらましを知ることができる。
いわく――
サイファ公国歴ミリウム二世三年夏。王家の避暑地カストレーデ離宮にて騒乱が発生。その城門に、血塗れの首級が上げられたと。
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