第一章 赤髪の踊り子

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 ――リズムが取りにくい。  テラにとって、音楽とは奏でるものではなく刻むものだ。どれほどゆるやかな旋律でもそれは変わらない。身の内側からわき起こる衝動。それこそが彼女の足を、腕を、突き動かす。  無論、熟練した踊り手であるテラは、奏で手がいかに劣っていようとも、それで舞えない、ということはない。しかしそれでも、舞いにくい、ということはあるのだ。  他国の使者を招く、宴の会場である。  王宮舞姫として宮殿に召し上げられた以上、いつもいつも、遊んでいるわけにもいかない。時にはこうして、本来あるべき場所で、本来行うべき職務をまっとうしなければならないこともある。 薄 物の衣が翻る。しなやかな四肢が、床を跳ねる。実は本人が踊りにくい、と思っていることなどまるで嘘のように、テラの身体は弦楽の調べに乗っていた。  主賓を迎えるべき壇上に、無論国王シリウス三世の姿はない。驚いたことに、宰相ルーカスの姿さえなかった。  あの男は決して愚かではない。玉座に王がない今、自分が壇上にあることが決して国のためにならぬことを知っているのだろう。  形式上、王が公式の場に姿を見せぬ時、代理を務められるただ一人の人間。 グリジア国王妃レノラ。シリウス三世即位後に迎えられたまだ若い王妃は、夫も近臣さえもいない壇上で、必死に緊張に耐えているかのように見えた。  腰まで伸びた銀色の巻き毛が美しい。手も足も華奢で、少女と言っても通りそうなくらい儚げな姿だ。シリウス三世は好色で知られた祖父の轍を踏むことを嫌い、妻を一人しか娶っていなかった。国の民に敬愛される若き国王のただひとりの妻として、ほんの数年前まで、彼女はこの国の女とてこれ以上とないくらいの幸福を味わっていたはずだったのに。  今、彼女に政治向きの話を持ちかける者もない。一段高い場所で悠然と眼下を見下ろしながら、その実、王妃はその場にいる他の誰よりも孤独なのだ。  しゃらん、とテラの手で鈴が鳴る。白い衣が翻る。頭上で赤々と燃える灯火、床を覆う更紗の絨毯。豪華な衣を纏いながらも、そこ暮らす人々の生き様は、あきれるくらい人間的だ。  ――ここではないどこかへ。人々の幻想を食らって、踊り子は舞う。 「――お離し下さい!」  唐突に、鋭い声が鳴り響いた。がたん、と一段高い場所にある椅子が動く。無駄のない動作で壇上を見上げ、テラは思わず息を呑んだ。  いつの時代でもどこに国でも、酔っぱらいというのは厄介なものだ。彼らが取る行動は、古今東西を問わず変わらない。そしてそんな時の人間は――例えどれほど生まれが高貴であろうとも、総じて、下品で浅はかである。  宴の席でしこたまに聞こし召した中年の男が、王妃の肩を抱いている。頬が赤い。吐く息どころか周囲の空気まで酒臭さくなりそうな、全身に「酔漢」の文字を滴らせているような男だ。  この中では身分の高い方なのだろう。着ている者の質がいい。その所為か、誰一人として、彼女を助けようとする者はいなかった。その事実が、王妃レノラの置かれた危うい立場を何よりも現しているかのように思われる。  今この場所で、誰かに自分の正体を暴かれるわけにはいかない。だけどあの場に割ってはいるくらいなら可能なのではないか。  一際大きくなる旋律に合わせて、テラが大きく足を踏み出かけした、その時だった。 「――グリフィス大臣、随分とご無沙汰しております」  下手な声楽師よりよほど良く通る声が、辺りを響き渡る。その声の主は、文句のつけようのないような完璧な微笑を顔に浮かべ、男の腕をつかみ取っていた。  ――ちょうど先刻まで、王妃の肩を無遠慮に抱いていた手を。  いつの間に現れたのだろう。ついさっきまで、あちらの壁のところで、誰かと談笑していたはずなのに。 「何度王宮にお招きしても、ご病気ということでおいでいただけないので、一度お見舞いにうかがおうかと思っていたところです。しかし見事にご回復されたようで、何よりですな」  口調こそ丁寧ではあったが、完璧すぎる微笑がかえって皮肉じみた印象をもたらす。腕を取られた男は、途端に酔いが覚めた、という顔でルーカスを見た。 「淫売の子が……」 「!」  その言葉を耳にした誰もが息を呑んだが、当の本人は、眉ひとつ動かさなかった。自分の言葉が何の波紋も描かずに跳ね返されたと知った男は、捕まれた腕を乱暴に振り払ってその場を立ち去った。その足取りは、最早酔漢のそれではない。  無言でそれを見送った後、ルーカスは王妃に一瞥もくれずに王座から離れた。いつかテラが見たときと同じくらい、冷たく凍った目をしていた。  その瞬間、ルーカスと目があった。  しかしそれもほんの刹那のできごとで、歓談の中央にあるテラをちらりと見やった後、まだどこかのお偉方に捕まって、すぐに姿が見えなくなってしまう。  見ていたことを知られたことが気恥ずかしくて、テラは視線を逸らした。そして今度はまた別な人間と視線がかち合ってしまい、愕然とした。 視線の主は壇上にいる。王妃である。何故彼女と目が合ったのか、その訳はすぐにわかった。二人とも同じ場所を見ていたからだ。王座に背を向け、遠ざかって行くルーカスの背中。ただそれだけを。  その瞬間の王妃の目に浮かんだ、やるせない色合いを見て、テラは悟った。  グリジア国王妃レノラの目に浮かんだ光。それは宰相ルーカスに対する、抑えきれない、隠しようのない思慕の情だった。  開け放たれた窓の外に広がる空から、さび色の嘴を持つ鷲が姿を見せた。寝台に横たわりながら眠ってはいなかった女は、両手を広げて鳥を迎え入れる。鷲が羽ばたくたび、大きな羽根が無数に白い夜具の上に散った。 「良い子ね……」  くるる……と嘴を鳴らす。どう猛な猛禽も、彼女にとっては長年親しんだ友人だ。彼の足に括り付けられた書簡をほどきながら、宴の席からかすめ取ってきた肉の欠片を食べさせてやる。鳥はひとしきり喉を震わせてそれを呑み込んだ後、両羽根を広げて、夜空の彼方へ飛びさった。 ここ最近、組織からの目立った接触はない。鷲を介したやりとりも、もはや日常行事のようなものである。  ギルドは――いや、あの男は、一体何を考えているのだろう。自分に何を望むというのだろう。  その時、窓の外の眼下、石で形作られた灰白の塔を目がけ、無数の水柱が跳ね上がった。水の飛沫が砕け散り、月の光の中へ散る。葉擦れにも似た音が、辺り一帯に響き渡る。  水の少ない国の人間が見たならば眉をしかめそうな仕掛けではあるが、今、白月の下で繰り広げられる光景は、それは幻想的で美しかった。  思わずその光景に思わずみとれていたテラの眼前で、信じられない出来事が起こった。 降り注ぐ光の飛沫の中から――一人の男が顔を上げたのだ。 「――そこで何をやってるの?」  彼に対し、この問いかけを行うのは何回目だろうか。黒髪から無数の水滴を滴らせながら、若い男はテラを振り返った。白月の色を反射して、それはさながら、無数の星がこぼれ落ちて行く様子のように見えた。 「それは、こっちの台詞だ、と何度言ったらわかる」  男の目が真っ直ぐに襟元に注がれているのを感じ、テラは思わず両手で我が身を抱くようにして後ずさった。当然、すでに寝間着に着替えている。夜着の下に下着はない。  ほんの一瞬、飢えた獣のような目でテラを眺めた後、ルーカスは噴水の端に腰を下ろして頭を振った。  はらはら、と白い石畳に水滴が散る。 「ただの眠気ざましだ。まだ一仕事残ってるからな」 「まだ、これから?」  あなたが眠るのはあの小屋でだけなの、と言いかけてテラは黙った。ルーカスがいつかのように、深い淵を覗くような目をしていたからだ。  グリジアは左右を大国に挟まれている。そしてご多分にもれず、この両国は仲が悪い。幸い、この国は彼らが自分のものにしたいと思うほど豊かではないから、これまで攻め入られることこそなかったものの、どちらに近づいても片方に、手始めの露払い、とばかりに切って捨てられる位置にある。 この場合、挟まれた小国が生き残る為にどんな術があるだろう。左右どちらかと密着し、彼らと一体になるのも一つの手。そしてルーカスは、もう一の手を選んだ。  北に山を二つばかり越えた所に、この近辺では唯一「帝国」と呼ばれる国がある。あそこも少し前に大地震やら内乱やらがあって内側はそれなりにごたごたしているらしいが、それでも「王」でなく「皇帝」を名乗るのは、その国の国主だけだ。  その国の使者を、黒宰相はグリジアに招き入れた。決して豊かではない財政をおして盛大な宴を開いて見せたのも、グリジアを挟む二つの国に結びつきを示す為だったのではないのか。 「少し……休んだら?」  国王と宰相は二人そろってようやく一人前だ。どちらかが欠けても国は動かない。その二人分の仕事を己の肩一つに背負い込んだ若い男は、テラのこの言葉に、まともに声を荒くした。 「休んでる暇があるか。ここで失敗したら、どうやって奴らからシリウスを守る!」  これまでテラが耳にしたルーカスの声の中で、最も力がこもっていた。いっそ情熱的、と言ってもいい。  テラが言葉を失ったのを見て、ルーカスは急に、我に帰ったような顔をした。浅黒い顔に、ほとんど失笑と呼ぶ以外になさそうな表情が浮く。 「……悪い。こんなこと、お前に言ってもどうにもならないのにな。……・確かに、少し疲れているのかもしれん」  テラはふるふると首を振った。 「だけど、シリウス三世は、心を……」  病んだ心のまま、もう何年も人前に出ない。 「シリウスは元に戻る」 「……」 「必ず、回復する。させてみせる。それまで、何があろうとこの国を守る。――そう、決めた」  決意のかたさを物語るかのように、男の拳はきつく握られていた。  王が心を病んで国政を放棄してから、はやくも四年。  それでも国も人々も、休むことなく走り続けている。  ふと、思った。父祖殺しはこの国の法において、他の何にも勝る重罪だ。それだけの罪をもとに、彼らは国を動かす地位を得た。しかしその罪が心病む程の大罪であるというのなら、ルーカスとってもまた、シリウス二世は実の父であったはずだ。  同じ父祖殺しの重罪を背負いながら、一方は病み、一方は若き宰相としてまがりにも一国の重みに耐え抜いている。この差は一体どこにあるのだろう。  ……つまりは、腹のくくり方かだろうか。誰か何といおうと、己の選択を信じ、責任を取り続ける。極めて簡単なことであり、また同時に難しいことでもあるが、人の進む道をわける道標は、実はただその一点にだけあるのかもしれなかった。
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