第一章 赤髪の踊り子

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第一章 赤髪の踊り子

 グリジア王国第十八代国王、シリウス二世は愚王であった。  放蕩を好み、罪なき者に罰を与え、国中の民を恐怖と恐慌の中に陥れた。見かねて諫めた重臣たちはことごとく死を賜り、諫言を行った実の息子の皇太子さえ、翌日には自室で遺体となって発見されたという。  このまま国が滅びるか。それとも国王が滅ぶが先か。  誰もがそう予想した王の治世をおわらせた者の名を、シリウス・グリジアという。亡くなった皇太子の嫡子であり、グリジア王国の正統なる後継者でもあった若者は、祖父殺しの重罪の元に王位を手中に収め、シリウス三世として即位する。  しかしグリジア王国第十九代国王、シリウス三世の治世は、長くは続かなかった。  新国王は、その治世半ばにして国務に飽いた。耕しても耕しても、一向に増えぬことのない実り。シリウス二世時代に辛酸を舐めた民心は疲弊しつくし、先王時代の奸臣達は、ことあることに新王の祖父殺しの罪を責めたてる。  やがて彼は一切の政務を拒絶し、自室に閉じこもったまま一部の重臣にさえ、その顔を見せることをやめてしまう。このグリジアの長い歴史中、愚王は多かった。だが一切の政務どころか、日常生活さえも拒否して一室に引きこもった国王は正真正銘、彼が初めてであった。  それでもかろうじて国政が停滞しなかったのは、ひとえにシリウス三世がその即位と同時に任命した、宰相である一人の男の手腕によるところが大きい。  王に見捨てられた現在のグリジア王国を支える、若干二十歳の若き宰相。通称を黒宰相、そしてその実名をルーカス・グリジアといった。  異国の香り漂う軽やかな調べと共に、深紅の髪が舞っていた。  細い身体からは想像もつかない程の、声量を秘めた美声。絶え間なく繰り広げられる、軽快なステップ。その場に居合わせた人々は皆、息を呑んで彼女を見た。  踊り子としてはまだ若い。酒場の踊り子は大抵、薄い衣と透けた衣装で豊満な身体を強調するものだが、薄物をまとった彼女の姿は、若々しい雌鹿のように、むしろ清楚ささえ感じさせる。  やがて弦が奏でる調べが最高潮に達し、その頂点で、演奏が唐突にとぎれる。息もつかせぬ演出の中、若い踊り子は観客達へむけ、深々と腰を折った。 「このたびは、おまねき頂き、誠にありがとうございます。――グリジア王国に栄光を。そして神々の恵みあれ」  彼女が言葉を終えると同時に、激しく弦がかきならされる。異国の弦楽器を腕に抱えた男は、黒い口ひげを蓄え、長いターバンのような布で頭を覆っている。  年に一度、グリジア王家が主催する王宮舞踊祭に招かれた踊り子は、決して彼女だけではない。しかし芸と我が身を武器とする数多の人々の中にあって、この若い踊り子が見せる舞は、際だって人の目を引いていた。  今年王宮に召し上げられる舞姫が誰であるか。しばらく芸の披露が続く間に、そこにいる誰もがわかりかけてきている。 「そなた、名をなんという」  灰色の衣服に身を包んだ王宮騎士達が近づいてきて、二人の周囲を取り囲む。予想通りの反応に、若い踊り子は心の内だけでほくそ笑んだ。 「――テラ、と申します」  この祭の目的は、きらびやかな宴だけにあるわけではない。古くからこの祭りで国王の目に止まった踊り子は、その後一年間、異国からの使者を迎える際に舞を披露する王宮専属の舞姫として、宮殿への出入りを許される。事実先王、シリウス二世の母親は、この祭りで王宮に召し上げられた踊り子だった。  だがテラの目的は違う。彼女は決して、踊り子としての栄華を極めるためだけに、この場にあるわけではない。  三年間、この日の為だけに磨いてきたのだ。舞も、武芸も、この身体も。  今から三年前の冬、テラは侍女として入り込んだ王族の館で正体を見破られ、着の身着のままで王家の森に逃げ込むという大失態をやらかしていた。おかげで未だに、故郷の人々彼女に対する扱いは冷たい。  ――もう二度と、失敗はゆるされない。  それは、居場所を失うことだから。  「ギルド」という言葉がある。一般に、同業組合と訳されることが多い。  石工のギルド。酒商人のギルド。蝋職人のギルドに、それに加えかつては娼婦のギルドや麻薬商人のギルドというものもさえあったという。人が寄り集まった時の習いとして、そこには当然のように、様々な利害や権益が渦を巻いていた。  ギルド制を廃止したのは、即位した直後のシリウス三世である。即位当時の王宮は汚職と癒着によって、どうしようもないまでに歪んでいた。彼は手始めに、癒着の温床となっていた商人達のギルドを解体したのだ。  現在、グリジア王国で「ギルド」を名乗るのはただひとつの組織。かつて皇太孫シリウス・グリジアと手を携え先王退位に動いた集団は、シリウス三世即位後、王家と袂を分かって表舞台から姿を消した。  歴史に名を残すこと望まなかった、その集団。シリウス三世即位に伴う影の功労者の名を、戦闘者のギルド――またの名を暗殺者のギルドという。  その集団の中で、テラは生まれ育った。  ぽろん、と男が膝の上に抱え上げた楽器から調べが零れた。声ならぬ旋律での叱責に、テラははっと我に帰る。 「……何を考えている」  テラを見つめる男の翠の目は、剃刀のように鋭かった。一抱えもある弦楽器は床に置かれ、それを弾いていた彼の指先は、男のものとは到底思えぬほど、長く美しい。しかし彼はこの指先で、数多の人間の命を転がしてきた。  暗殺者のギルドを統べるこの男。名をクラネットという。  そして今、ギルドの頭領ともあろうこの男が、こうして彼女と共に王宮内にまでもぐり込んだのには、一つのわけがあった。  ――この赤毛。  赤髪美しいギルドの女剣士。テラの母は、この男の情人だった。その彼女が五年前に亡くなってからというもの、彼はテラに並々ならぬ執着を見せているのだ。  薄い衣の内側に、直接肌に突き刺さるような男の視線を感じ、テラはわずかに身震いする。 「――自分のすべきことを忘れてないだろうな」 「忘れてないわ」  この男の視線は、不快だ。皮膚の裏側まで見通すかのように鋭い目をしているくせに、テラを見ない。いつも彼女を通して、そこに別な人間を見る。だが男の台詞には、きっぱりと頷いた。心の底からの本心だった。 「忘れるわけないじゃない。奴らは、母さんの敵よ」  ひれ伏したままの2人の頭上に、声が降り注いだ。頭を上げよ、の声にそろそろと目だけ持ち上げたテラの頭上に、一人の若い男の姿があった。その姿が、あまりに予想とかけ離れていたので、人が彼に呼びかける声を耳にするまで、彼が何者であるのか、想像はついていたはずなのに――完全に理解するまで、しばらく時間が必要だった。 「宰相閣下の御前だ、顔を上げろ」  ――宰相閣下。  この男が?  目鼻立ちは、整っている方だといってもいいだろう。背丈は並以上あり、体つきには均整が取れている。要するに、良い男ぶりだ。  しかしその容貌は、この王宮内においては極めて異様だった。漆黒の髪に、黒曜石を思い起こさせる暗い色の瞳。そして蜜色に輝く肌。先王シリウス二世の十三人いる王子の最後の1人。異国の奴隷女を母に持つその男は、母親にあまりにも良くにた風貌をしてこの世に生まれ落ちた。 「あなたは……」  開かれた視界。一段高いところから自分を見下ろす男の姿と、そして何よりもその若者に見覚えのある自分自身に、テラは驚く。  グリジア王国を支える若き宰相、ルーカス・グリジア。  それは忘れもしない三年前の冬、王家の森で彼女の命を救った、あの少年であった。
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