第一章 赤髪の踊り子

3/5
31人が本棚に入れています
本棚に追加
/96ページ
 机の上に積み上げられた書類の山を見て、部屋へ入ってきた男は「うげ」と小さく呟いた。自分では押さえたつぶやきのつもりだったのに、相手の耳にはしっかり聞こえていたらしい。正面の机で書面を眺めていた若い男は、彼を見て笑いをかみ殺していた。  グリジア王国の宮殿は、大小いくつかの建物からなる。その中の一つ、国王が生活する正寝へと続く螺旋回廊の入り口に、その部屋はある。 「――近衛騎士隊長ともあろう奴が、何て声を出してるんだ」 「宰相様とは違って、俺は内勤には向いてねぇの」  そうだったな、とルーカスは声を上げて笑う。笑われた彼の方は、笑い話ではすまない。欠員が出た近衛隊の兵を募集したら、たまげるような数の応募があった。これからすべての書類に目を通し、必要なら希望者の面接を行う手はずまで決めなければならないのだから。 こればかりは、部下に押しつけてしまうわけにはいかない――事実、これまで、どうでも良い書類仕事は全部部下に丸投げしてきた――侍女から文官に至るまで、信頼の置けぬ人間をシリウス三世の傍に置くことを、彼らは望まない。  グリジア王国近衛隊隊長、グレイ・クレスタはずかずかと室内に入り込み、広々とした机に広げられた書類の一枚を、指先だけでつまみあげた。 「おまえ、こんなよい天気の日に、よく部屋の中でこんなもんと遊んでられるなぁ……」 「……グレイ、それは国の最重要書類だぞ」  宰相の職務は国王の国務運営を端から支えることにある。国王が助言を求めれば的確な発言を返し、人を求めれば複数の人名をすぐにあげる。それができて初めて、優秀な宰相として名を残すことができるのだ。  グレイは武官として、そしてルーカスは文官として、彼らはかつてシリウス三世の側近中の側近だった。シリウス三世の掲げる理想に共鳴し、新たな国造りへの期待に胸を弾ませていた過去の情景は、今も彼らの胸に新しい。 グレイが近づいてきたのを見て、ルーカスは顔は上げずに手だけで書類をかきわけて空間をあけた。そうしておかないとせっかく仕分けした文書をめちゃくちゃにされてしまうことを、経験上良く知っているのだ。  友のせっかくの努力を無にしないよう、空いた机の端にどっか、と腰を下ろして、近衛隊長は若き宰相を見る。 「ことしの舞姫、ありゃなかなかの上玉だよな。しかしあんな髪の女がこの世に2人も――」 「お前のその手の早さはよーく知ってるが、……いや、だからこそ、悪いことは言わんから、あの女は、やめておけ」 「へぇ?珍しいな、お前が女の話に乗ってくるなんて」  からかうような口調に、ルーカスは極めて真剣な表情で眉を上げた。 「そういうことを言っているんじゃない。あの女は……危険なんだ」 「危険な女?何かよい響きだな。面白いじゃないの」 「お前な……いつか女で身を滅ぼすぞ」 「俺たちゃまだ独身なんだぜ。この若さでお仕事だけじゃ、干上がっちまうだろうが」 この調子で王宮中に浮き名を流しているグレイとは異なり、ルーカスの方には、女の噂などまるでない。彼とて健全な若い男である以上、どこかで息抜きくらいしているのだとは思うが――少なくともグレイは彼に女の影を見たことがない。  その理由がわかるだけに、若い男は深く大きく息をつく。 「……シリウスの様子は?」  グリジア王国第十九代国王、シリウス三世に対し、敬称さえつけずに呼び捨てる人間は、彼らだけである。この世にただ二人、それが許される立場に、彼らはある。 「……相変わらずだ」  問われた男は、深い闇を見る目をしている。グレイの持ち場が剣を打ち合う戦いの場なら、ルーカスの戦場はこの場所だ。王宮という要塞で、シリウス三世を守り抜くため、彼はたった一人で戦い抜いている。 「もうじき、四年か……」  シリウス三世が、自身の戦場を放棄してから。  はじめめは、ささやかな批判からはじまった。新王は、一部の側近ばかりを重宝し、周囲の人の意に耳を貸さぬ。少々独断が過ぎるのではないか――と。 保身と自己の利益のことにしか頭にない、先王にみすみす道を誤らせた奸臣達の言葉に、貸してやらねばならぬ耳など存在しない。しかしシリウス三世は病んだ。彼はそれまで、優れた皇太孫だと、国を救った英雄だと、もてはやされることだけしか知らなかったから。 「――宰相閣下」  ほとほと扉が鳴った。入れ、との声に戸を開けた若い近衛兵は、そこに近衛隊長の姿を見つけて目を丸くした。次いで彼が机の上から勢いをつけて飛び降りるのを見て、今度は笑いをかみ殺す。 「失礼いたしました。隊長もいらっしゃるとは存じませんで」 「俺は基本的に神出鬼没なの。それよりお前、ルーカスに用があったんじゃねぇの?」  自身の直属の上司の言葉に、若い兵は我に帰ったように敬礼を返す。 「あ、あのそれが……」 「どうした?勿体づけにさっさと言えよ」 「サラン様がお屋敷にいらっしゃらないとの報告が……」  一羽の鷲が王宮の空を舞っていた。  高く、広く。旋回を繰り返しながら、やがて低い鳴き声を残して王家の森の頭上へと、羽ばたきながら消えて行く  誰が為に、舞うのか。  顔を上げて空の彼方を見送っていたテラは、背後でかさこそと茂みが割れる音を聞いて、視線を下ろした。王宮への出入りを許されたばかりの踊り子が、このような場所で何をしているのか。問われては返答に困る。あの鷲の足にくくりつけたギルドへの文書。そしてテラの靴の中には、今さっき受け取った、仲間からの書簡が隠されている。 「あら、わたくしったら、嫌ねぇ。自分の家に向かうっていうのに、道に迷ってしまったみたい」  テラの目の前に現れた女は、疑いとはほど遠い、澄みきった笑みを浮かべていた。  漆黒の瞳は彼女の知る一人の男のそれに良く似ていたが、彼のように真っ直ぐに誰かを射抜くことはない。常にふらふらと空間を漂い――ちょうどそこにいない誰かを捜し求めるかのように――そしてようやく気がついた、という風に目の前のテラを見た。 「あ、あの……」 「あら、王家の森に若いお嬢さんが珍しい。うちの息子を知らないかしら?これくらいの背の、髪の黒い男の子なのよ」 これくらい、と示された高さは、テラの腰くらいの高さしかない。 「ルーカスっていうの。良い子なのよ。とっても良い子なの。本当に、王家の森に埋もれていることがもったいないくらい、かしこい子なんだから」  ――ルーカス。  ではこの女が、あの男の母親なのか。  若い頃は、さぞかし美しかったことだろう。生涯で7人もの女を妻にしたシリウス二世が入れ込んで、台所奴隷だったか掃除奴隷だったかから召し上げたというのも頷ける。  女は靴を履いていなかった。褐色の足に走った無数の切り傷がみみず腫れに腫れ上がって、痛々しい。どこか枝にでも絡めたのか、美しい黒髪が途中でからんでちぎれ、陰惨たるありさまになっている。 「あらまあ、綺麗な色の目ねぇ。森の宝石みたい」  自分に向かって伸ばされた指先を、よけることは可能だった。だけどその瞬間、女が本当に心の底から慈しむような目をしていたので、テラは黙って、頬に触れる指の感触を受け入れた。  その感覚はテラの心に、失った遠い日の幻影を思い起こさせた。母はいつも両手でテラの頬を包み込んでは、お前の目はお父さんにそっくりだと、お母さんの大好きな瞳だと言っていたから。 「――おばさん、こんなところにいたんですかぁ?」  唐突に聞こえてきた、極めつけに明るい男の声に、テラは幻から引き戻されて後方を振り仰いだ。先ほど女が現れた茂みの向こうに、若い男が立ってこちらを見ている。金色と亜麻色の中間のような髪と、くすんだ灰色の瞳を持った男の視線が、テラに向かって注がれる。口元には笑みを浮かべていたが、視線は刃物のように鋭い。鍛えあげられた剣士の目だと、テラは思った。 「あらグレイちゃん、せっかく遊びに来てくれたのに、ルーカスったら、どこに行ったのかしら?」 「ルーカスの奴ならさっき、森外れの泉のとこにいましたよ。それよりおばさん、俺、またおばさんの作った蒸しパンが食べたいなぁ」  男はテラをまったく見ることなく、女の腕を取る。何ら抵抗も見せずに、女は嬉しそうに身をよじって笑った。自分よりずっと身体の大きな若者を相手に、「グレイちゃん」などと呼びかけているところが大層おかしい。 「そうねぇ、せっかくグレイちゃんが遊びに来てくれたんだから、腕によりをかけようかしら」 「それは嬉しいなぁ。ルーカスの奴も喜びますよ」  二人ともテラの存在などすっかり忘れたかのように、宮殿の方角へ向けて歩いて行こうとする。すっかりその場から置き去りにされたテラは、声を発するのも忘れたまま、動くことも出来ずにその場に立っていた。  ちょうどテラの脇をすり抜ける瞬間――若い男の片方の手が、テラの二の腕を掴んで引き寄せた。 「――放っておくと、この調子で泉にでもはまりかねないんだ。相手してくれて、ありがとうな」  一体何が起こったのか理解できず、茫然と、返答さえ忘れて、テラはその場に立ちつくす。二人が去って行く方角を、ただ見ていることしかできなかった。
/96ページ

最初のコメントを投稿しよう!