第一章 赤髪の踊り子

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 グリジア王国において、地位は世襲によって受け継がれる。そこに、人々の意思や力量という名の選択肢はない。  国王の子は王に、そして、宰相家に生まれたものは宰相に。それは未来永劫、決して途絶えることなく続いてゆく不可侵の定めであり、だからこそ、子という立場の人間は、父や祖父という名の人々に対し、絶対の忠誠を誓うのだ。  ――売女の子めが。  男は口の中に呪いの言葉を吐き捨てながら、複雑な文様が刻まれた石畳の上をのろのろと歩く。  代々グリジア王国の宰相を勤める、グリフィス家の人間として、彼は生を受けた。先代の宰相――シリウス二世の宰相であった男には実子がなかったので、そのまま行けば、彼こそ次代の宰相であったことだろう。しかし即位したシリウス三世は、自らの腹心であった年下叔父に、宰相の位を投げ与えた。  そんな新宰相を、切れ者であると人は言う。敵対する二つの大国に領土を囲まれ、成す術のない小国を、他国の使者を招き、同盟を結ぶことのできる国家にまで作り変えた。人々の前に姿を見せないシリウス三世に変わりグリジアを支えているのはあの男であると、王宮の人間は彼の容姿や生まれを蔑みながら、心の底では黒宰相を頼りにしているのだ。  濡れた石床に足を取られ、彼はその場に座り込んだ。酔いはまだ、完全には醒めていない。そもそも、彼がこれほどまで飲まずにいられないようにしたのも、すべて―― 「黒宰相、お前の所為だ!」  がつり、と拳が床を打つ。その瞬間、吐息とも感嘆ともつかぬ声が頭上に落ちた。 「――ほう」  と、声は言う。 「それほど、黒宰相が憎いか?」  憎い。憎くてたまらない。のろのろと顔を持ち上げ、彼は頷いた。 「あの男の策略を壊すことができる、と言ったら、どうする?」  あの男の策略。グリジアと帝国間に同盟を結び、この国を東西の大国間の緩衝地域にしようというものである。幸い、帝国側にも否やはない。そうしてあの男は、国内だけでなく国外にまで、辣腕家の宰相として名を轟かせるのだ。 「――そんなことは、許すものか!」  激昂したその瞬間、鋭く尖ったものが彼の喉を左右に引き裂いた。  痛みは感じなかった。ただ唐突に、すべての呼吸を奪われ、彼は意識を失った。  小さく水音が響き、同時に闇夜に高々と水柱が上がる。  やがて勢いよく吹き出していた水柱がやんだ時、そこには誰の姿も残ってはいなかった。  降り注ぐ朝の日射しの中に、吹き上がる水の飛沫が散って行く。  灰白色の石段で、羽を休めていた鳥たちが、一斉に空へ飛び立った。土地は決して肥沃ではなく、鉱物にも資源にも恵まれない小国だが、水脈に恵まれ、水にだけは困らない。  水の入った瓶を抱え、白色の石階段を下っていた女は初め、吹き上がる水の色が常と異なることを怪訝に思った。次いで、噴水の縁からこぼれ落ちる液体の流れ方が、尋常でないことに気がつき、歩みを止めた。  いくら水が豊富といっても、こんな風に溢れさせてはたまったものではない。石床が水浸しになるし、何しろもったいないではないか。  向きを変え、その場所をのぞき込み―― 白色の髪が水面を漂う。水を吸い込み、元の色がわからなくなるほど色の変わった上着。石で囲まれた空間から、ぽっかりと開かれた双眸。ただぼんやりと、空だけを見上げているような。  そして何よりも、彼の周囲を取り囲む、目を奪わんばかりに鮮やかな朱の流れに、女は悲鳴を張り上げた。 「誰か……」  腰を抜かした女官の手から、なみなみと水を讃えた瓶が離れ落ちる。その中から零れだした透明な液体は石作りの床を伝って、大きな水たまりを作りかけていた。 「――では、この一件はすべて、あなたがご自身の責任で事態の収集をはかられる、ということでよろしいのですね……宰相閣下?」  同じ言葉を何度も何度も繰り返した後、ようやくその男は部屋から出て行った。もっとも、この場所を訪れたのは彼が初めてではない。グリジアの王国の大臣や官僚と名のつく人々すべてが、宰相の執務室にやってきて、一字一句、そっくり同じ台詞を繰り返して帰っていったのだ。  腕組みをしてその背中を見送っていたグレイは、うんざり、と息を吐く。 「いっそ、宮殿内に定期的に牛の血でも撒いておくか。血の匂いに慣れれば、頭のお固い方々も、死体ひとつ浮いてたくらいでこんなに騒がなくなるんじゃないのか?ルーカス?」 「やめておけ。血管がぶちきれて死なれたりでもしたら、後の始末が面倒だ」  隣国と敵対関係に陥った時、その更に遠方に在る国と手を結ぶことを、政治用語で「遠近外交」と呼ぶ。この数年、ルーカスとグレイは協力して、その方法を模索してきた。しかしこの国の閣僚達は自国の安全よりも、ルーカスの足元を掬えるかもしれない事態が発生した、という事実のほうがはるかに重要らしい。 ――グリフィス……か。  元宰相家の人間であり、反・黒宰相派の筆頭のような男であった。シリウス三世が即位した当初、彼らが戦闘者のギルドとういう「ならず者」と係わりあったことを声高に弾劾し、結果的に五年前の粛清の原因となった男でもある。  ――しかし、一体誰が……。  がたん、と椅子が揺れた音で、グレイははっと我に返った。グレイを無視して立ち上がったルーカスは、脱いで背もたれにかけてあった上着を肩にかけ、扉の方角へ向かい、歩き出したところだった。 「おい、ルーカス、どこに行くんだよ?」 「……一回、帰って寝るよ。実は夕べから一睡もしてないんだ」 「ルーカス!」  返答はない。扉の向こうへ消える一瞬、グレイの目に映ったルーカスは、まっすぐに前方を見据え、窓から無数に零れ落ちる木漏れ日の数を、数えてでもいるかのように見えた。  王家の森に注ぐ太陽の光の下に、ばさばさと、何かが羽ばたく音がする。両翼を開いた鳥の影が頭上を覆い、地表にわずかばかりの影を作る。  弧を描きながら上昇して行く鷲の動きを見守りながら、テラは青一色で塗りつぶされた空を見る。雲ひとつない。去ってゆく鳥の羽ばたきだけが、青い画布内の唯一の色彩だ。 「――悪いが、帝国の使者はもう、王宮にはいないぞ。朝のうちに異動してもらった……お前の狙いがそこにあるのなら、だが」  懐の短刀を取り出す間もなく、片手で肩を掴まれた。そのまま体を回転させられ、木の幹に背中を押し当てられる。ごつごつした木肌を布越しに感じながら、テラは自分を押さえつける男の闇色の双眸をにらみ上げた。 「お放しください。人が見たら誤解しますよ。……宰相閣下」 「ひとつ、答えろ。そうすればすぐにでも放してやる」  ぎり、と骨が鳴る。強い力で手首を掴まれ、痛みが駆け抜ける。吐息が混じる程近くにあるルーカスの目は、まるで何かを悼んでいるかのように、暗く翳りを帯びていた。 「どうして、あの男を殺したりしたんだ?」 「!」  そんなことを、わざわざ確かめにきたというのか。しかし答を探すより早く、テラは身を翻し、男の腕から抜け出していた。身をかがめ、今度は逆にルーカスの手を掴んで引き寄せた後、ほとんどかぶさるようにして、彼の体を地面に押し付ける。 「――伏せて!」  無数の礫が、木立の合間を駆け抜けていた。びし、と空間を切り裂き、樹皮に突き刺さる。先ほどまでルーカスがテラを押さえつけていた、ちょうどその位置に。 ――銀の疾風……。  がさり、と下草が割れる。木立の合間から現れた男は、顔を覆っていた布地を取り去る。その双眸は、鮮やかな翠色をしていた。  テラの母の情人。そして――現在の、ギルドの頭領。 「その娘から、手を放していただこう」 「クラネット……」  その名を呼ぶ呟きは、テラよりも先に、ルーカスの口から零れた。 「お前……、どうやって、王宮に侵入した」  舞踊祭で召し上げられるのは舞姫だけだ。連れの楽師に王宮に立ち入る自由はない。 「方法などいくらでもあるものですよ。私たちがその気にさえなればね……」 今から六年ほど前、戦闘者のギルドと皇太孫シリウスを押す勢力は手を結んで、先王シリウス二世を弑逆した。その頃からシリウス三世の側近中の側近であったルーカスは、ギルドの戦士達ときわめて親しい関係にあったと聞いている。  しかし、即位したシリウス三世は、宮廷の整理を終えた途端に手のひらを返し、自らの即位に手を貸したギルドを滅ぼそうとしたのだ。  テラの母も、先の頭領であったこの男の父親もその時の粛清によって命を奪われた。誇り高き戦闘者のギルドにおいて、この戦い――裏切りは、忘れることのできぬ屈辱である。 「少し早いが、仕方ない。お前にはここで死んでもらおうか。黒宰相がなければ、どのみち同盟などまとまらぬのだから」 「……その為だけに、あの男を殺したのか」 「随分おかしなことを言う御仁だ。その口で、まさか、人の命は尊いとでも言う気なのか?――テラ、母の仇だ。お前がやれ」  ちゃら、と男の手で武具が鳴る。銀の疾風と呼ばれる小型の飛び道具。その切っ先は刃よりなお鋭い。テラは隠し持っていた短刀を、鞘から引き抜いていた。  ――手を携えて戦ったはずの母さんを裏切って、だまし討ちにして、この人が、殺した。  待っても待っても、家に帰ってこなかった母。一体何が起こったのか、誰に聞いても確かな答は得られず、形見の品さえもテラの手には残らなかった。  それを思えば、彼を殺せる。殺すことができる……はずだ。  だけど先ほど、「殺したのか否か」ではなく、「殺した理由」を問われた瞬間――ルーカスが、彼女が殺したものだと信じて疑っていないのだと知った瞬間――心のどこかが激しく痛んだのは何故だったのだろう。  テラの手から鞘が落ちた。柄を持つ手に、力がこもる。――それは本当に刹那の出来事で、だからそこにいた誰もが、一瞬、何が起こったのかわからなかった。  たわむほどに勢いをつけて放たれた刃。テラと同じ色の目をした男は、目を瞠って、間近の樹皮に突き刺さった短刀を見た。目標から逸れ、人の血ではなく樹液を滴らせている武具の先端を。 「お前……何を考えて」  仮にも戦闘者のギルドで育った人間が、意図せずに標的を外すことなどありえない。  テラ自身、自分が何故そんなことをしたのか、わかっていなかった。木に刺さったままの短刀――その柄の部分にはギルドの戦士たる証の銀の龍が刻まれている――とそれを放ったはずの自分の手を、呆然と見比べる。  ばさばさ、と頭上で枝が鳴る。大きくたわんだ枝から何枚もの木の葉がこぼれ落ち、空へ羽ばたいた鳥の羽は、今この場の重苦しさを現すかのように深い闇の色をしていた。 「あ……」  無意識のうちに後退を繰り返していた足の裏が、何もない空間を踏みつけにして揺らいだ。その瞬間、それまで身動せずにいたルーカスが、弾かれたようにして声を張り上げた。 「駄目だ、待て!その先は崖になって――」  深紅の髪が天へ向け、そよぐ。  ――落ちて行く。その先に何があるのかもわからない、深い闇の底へ。  抵抗しようという気にもなれない。いや、どれほど足掻いたところで、止められるものでもなかったが。  意識がとぎれる一瞬、テラは懐かしい母親の笑みを見たような気がした。
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