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第三章 波乱
衣がこすれる音がする。わずかに押し殺した嗚咽の声。厚い扉を隔てて聞こえる、抑えた息づかいと零れる吐息は、闇の中に確かに男と女がいることを示している。
「行かないで、行かないで下さい……」
女のささやきと懇願に、男の横顔はわずかに揺らいだ。取り残された女は、そのほんの少しばかりの動揺にすがりつくように、自分のものより一回り以上大きな片手を、両手で強く握りしめる。
「お願いです。一人にしないで」
「……あなたが本当に求めている相手は、俺ではないでしょう」
「――六年前にも、あなたはそう言ったわね」
抱え込んだ手のひらを引き寄せ、そこに頬を寄せる。それほど強い力が込められていたわけでもないのに、男は半ば力ずくで、細い手の中から自分の腕を引き抜いた。
その瞬間、女は、心底傷ついたような目をして彼を見た。一瞬、ひどく痛ましいものを見るような眼をして彼女を見下ろした後、男は黙って部屋を後にした。彼の身体が通り抜けられる、ぎりぎりの空間分開かれた扉から灯りが漏れ、そして再び闇が支配した空間に、女のすすり泣きだけが響く。
「お願い、お願いよ」
一度でいい。ただ一度の夢でもよいから。
「一度でいいから、わたくしを抱いて下さい……」
「――王妃様が、懐妊?」
かたこと……と、馬車の車輪が小石を弾く。あぜ道の向こうには緑野が広がり、時折、畑を耕す牛馬の、のんびりとしたいななきが聞こえてくる。収穫間近の葉野菜は、深い森奥を思わせるほど、濃い緑色をしていた。
夏草の合間を、何人かの子供が笑いながら駆け抜ける。荷台の後で幼子のように足をぶらつかせていた若い娘が、耳にした言葉の深刻さがわからない、というように、首をかしげて後方を見た。
「おばさん、それが何で大問題なんですか?」
現国王シリウス三世には側妾がない。先王殺害の後に王位についた彼に、手塩にかけた娘を嫁がせようとする貴族がいなかった所為である。しかしかねてから恋仲であった、下級貴族の娘レノラを妻として娶り、そしてただひとりの妃として愛し続けている姿は、一般庶民の目には概ね、好ましいものと受け取られていた。
だから唯一の妻である王妃レノラが子を産み、それが男児であれば、間違いなく、グリジア王国の後継者だ。シリウス二世処刑という暗い枷を負いながらも、王国の血統はこうして続いて行く。
でっぷり太った中年の女が、大きなかごを抱えたまま、娘の耳に口を寄せる。先頭で馬を操る若者が振るう鞭の音が、一瞬、はっとするくらい鮮やかに馬車の天幕の中に響きわたった。
「馬鹿なことを言うね。王妃と寝る気力があるなら、とっくに部屋から出てるだろ。王妃が孕んだ子は、王の子じゃないんだよ」
「嘘!じゃあ、誰が父親なんです?」
女は王都へ、病に倒れた親の介護に帰っていたという主婦だった。老親の様態が快方に向かい、ようやく夫と子のもとに帰れるようになったのだと喜ぶ女をこの旅一座の馬車に便乗させたのが二日ほど前、王都で仕入れてきたというこの手の醜聞は、若い娘には格好の餌食のようだった。
「……ここだけの話」
女は息を吐き出す。
「黒宰相ってのが一番有力な線らしいよ」
「えっ」
その瞬間、荷台の隅にうずくまっていた一人の娘が、驚いたように顔を上げた。それまで、彼女がそんな風に感情を露わにすることは珍しかったので、そこにいた誰もが、弾かれたように彼女を見た。
「……テラ?どうしたの?」
「あ、いえ、何でも……」
深紅の髪の娘は、我に返ったように息を呑んだ。王都の傍の崖の下で倒れていたところを拾い上げてから数ヶ月、踊り手として卓越した技量を持つことを買われ、彼女はこの旅一座には欠かすことのできない人間とっていた。たった数人の芸人しかないとはいえ――いや、だからこそ、芸の良し悪しを見極める座長の目は優れていなければならない。その女が娘の芸について一見のもとに断言したのである。
彼女なら――王宮舞姫にだってなれる、と。
しばし、茫然と眼を見開いたあと、曖昧に微笑むような仕草を見せる。美しいことには美しいが、どこか影の薄い娘だ。いつも何かを――誰かの目を恐れてでもいるかのように、怯え萎縮しているようなところがある。
彼女が再び口をつぐんだので、それ以上問いかけるものも、注意を払うものもいなかった。だから、彼女が瞳を閉じ、絞り出すようにして呟いた言の葉を聞きとがめたものも、一人としていなかった。
「ルーカス……」
――かの男は、今頃、どこで何を思っているのだろう。
「だーから、俺は、さっさと結婚しとけって何度何度も言っただろうが。だからこんな訳のわからん噂が立つんだ」
長いすに寝そべったままの友の言葉に、ルーカスは呆れたように溜息を返す。
「独身が悪いって言うのなら、グレイ、お前も人のことは言えないだろうが」
いつもとかわらぬ、黒宰相の執務室の光景。否、いつもとは様子が少し違った。
どっしりとした樫の椅子に足を組んだルーカスは、片方の肘を机の上に乗せている。訪れた時間がよかったのか、それともルーカスがあえてそうしたのか――通常その周囲を埋め尽くしているはずの書類の束は、今ここにはない。
グリジア王国王宮において、十八歳の成人を越えても伴侶を得ないでいると、変人として扱われても仕方ない。男も女も十五、六で婚約の契りを交わすのが通常なのだ。
「俺はいいの。俺は。俺が結婚なんかしてみろ。王宮中の乙女が、ショックで死んじまうだろ」
「……その台詞、お前が今付き合っている女達に聞かせてやれ。もれなく、全員が別れてくれるぞ」
――王妃に不義密通の風聞。
ここ最近、宰相が王妃の部屋を頻繁に訪れていたことは、紛れもない事実であった。心を閉ざした人間の近くにいることは辛い。王妃を慰めるためのその訪問が深夜にまで及ぶことが幾度かあったことも、近衛隊長として王宮全体に情報網を持つグレイは知っている。
しかし実際のところ、グレイはルーカスが王妃と寝たとは思えなかった。これまで女の噂などまったくといっていいほどなかったルーカスに、初めて沸いた艶聞の相手が、よりにもよって王妃レノラだというのも、いかにも作りごとめいているではないか。
この噂を流した張本人――いや少なくとも、噂を広めた人間は恐らく、今、目の前にいるのではないか……と考えるのは穿ち過ぎだろうか。
机に肘をついて、呆れ顔でこちらを見ている友人にむかい、心の中だけで舌を打つ。それなりに長いつきあいの中で、この男の考えそうなことは、いやというくらいよくわかっている――つもりである。
シリウス三世は彼なりに王妃を愛していた。彼がこの風聞を耳にすれば、状況が変わる、その可能性はグレイも否定はしない。
しかし彼にはルーカスのこの策が、非常に危険な博打ある気がしてならなかった。
先日、グリジア王国に、王宮舞姫が大臣を殺害して逐電するという、前代未聞の大事件が発生した。逃げ出した舞姫は、未だに発見されていない。恐らく永遠に見つかることはないだろうというのが、宰相ルーカスと近衛隊長グレイの見解である。
王宮内に侵入した、戦闘者のギルドの残党達。舞姫は王家の森から行方をくらまし、もう一人の男もまた、その後、忽然と姿を消した。
――まだこれほどまでに、この国は安寧とは程遠い。
若き近衛隊長は、光り輝く夢を見た六年前から、まったく変わらぬ親友の姿に、時折、激しい苛立ちを感じることがある。
――お前は、何もわかっていないんだ。
あの頃と今では状況が違う。今のこの国に必要なのは、自室に引きこもったままのシリウス三世ではない。本当に国が望んでいるのは、宰相ルーカスの方であるというのに。
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