序 王家の森

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序 王家の森

「あたしはこの国で生まれて、育った。国をよくしたいと思うのは、人として当然じゃないの?」  きっぱりとそう言い切った少女は、燃えるような深紅の髪をしていた。  打ち付けるような吹雪の音に、時折、吹き荒れる風が梢を揺らす、すさまじいまでの轟音が混ざる。小屋の屋根はその度にぎしぎしとしなり、囲炉裏に灯った炎の赤も、それに合わせて左右に揺れた。  木板の上にあぐらをかき、飴色の瓶から直接酒を口に含んでいた男はくつくつと、喉奥で何かを転がすようにして笑い出した。彼がもう少し年長でさえあったなら、いっそ嘲笑と呼んだ方がいいような、裏側に実に様々なもの含んだ笑い方だ。 「国がお前に何をしてくれた?国が人に飯を食わすか?凍えた子供に、炎を貸したりするもんか」 「何を言って――」 「知らないのだったら教えてやる。国なんてもんはな、人間を踏みつけるだけ踏みつけて、勝手に肥大して行くものだ。要するに、化けものの一種だろうが」  年の頃なら、今年ようやく十五になったばかり少女と、それほどかわりはしないだろう。その意味では、男とよぶよりはまだ、少年と言った方が近い。しかし幻想という幻想のすべてを脱ぎ捨てた漆黒の瞳は、既に大人――いや、老人のそれとさえ等しいようにさえ感じられた。 「ねえ」 「何だ?」 「……あたしを、抱く?」 「はあっ……?」  少女の唐突な申し出に、琥珀色の液体を気管に詰まらせ、少年はごほごほと、初めて年相応の幼い仕草で咳き込み出した。狭い部屋の中、少女の細い指先が、まだ成長途中を感じさせる、固い感触の背中に触れる。弾かれたようにその手を振り払った少年は、その後も、胸を押さえてしばしうめいていた。 「ちょ、ちょっと大丈夫?」 「お前、初対面の男相手に、何を馬鹿なことを……」 「馬鹿じゃないわよ。あなたはあたし命を救ってくれた。そのお礼をしたいと思うのは当然じゃないの」  赤髪の少女は、突風に揺れる空を仰ぐ。王都の中心に広がる、通称「王家の森」と呼ばれる密林。その中へ迷い込み、嵐に巻き込まれた少女を救った少年。王族の私有地であり、俗人が足を踏み入れることないこの森を、彼はまるで、懐かしい故郷を訪れるかのように、悠々とかき分けた。  薄い戸板を隔てた向こうでは、今もまだ、絶望と死が渦を巻いている。彼が何者であるかなど、この際どうでも良いのだ。この夜を小屋で過ごすことができなければ、彼女の命は確実に失われていただろうから。 「今のあたしには、他に、お礼のしようがない」 「……悪いが、俺は行きずりの女と寝る趣味はない。馬鹿なことを考えてると、この吹雪の中にたたき出すぞ」 「だって……」 「この森の夜を甘く見るな。冬場に森を知らない人間が迂闊に足を踏み入れると、本当に命を失う」  ばさり、と赤毛の上に古びた毛布を投げつけられた。少女を見ることもなく、少年は壁に背を持たれて目を閉じた。漆黒の睫毛が揺れ、色の薄い唇から、深い吐息が漏れる。 「随分……詳しいのね」  王族の私有地であり、同時に、人々が忌み嫌っている王家の森を。 「昔……ここで、母親と暮らしていたからな」 「え?」 「俺がまだ子供の頃の、大昔の話だ」  彼の年齢から考えて、それはそれほど昔のことでもあるまいに。  浅黒い肌の表面を、深紅の炎が複雑な陰影をつけて駆け巡る。ほんの一瞬、その横顔に浮かんだ表情をかいま見て、少女は思わず息を呑んだ。  まるで幼子のように。ただひたすらに、何かを追い求めるような。追えば虹に触れられると信じた子供の心の心を失いながら、だけどそれでもひたむきに何かを追い続ける者――追い続けずにいられない者だけが持つ、深い絶望と孤独が一瞬、その場所に鮮やかに浮かびあがったかにように見えた。 「だから、ここに来れば、しばらくは寝られるんだ。……人の貴重な睡眠時間を、これ以上邪魔しないでくれないか」  言うが早いか、言葉が寝息に呑まれる。瞬く間さえなく、どうやら本当に眠りに落ちたらしい。 「変な人……」  随分と、おかしな男だ。いっそ、奇妙といってもいい。静かな寝息を立て始めた男の蜂蜜色の肌に、飽くことなく視線を滑らせながら、少女は静かに呟いた。 「だけど、あなたはあたしを助けてくれた。覚えておいて。――ギルドの女は、受けた恩は忘れない。いつか、必ずこの借りは返すから」
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