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オフィスビルが立ち並ぶその界隈は夜にはオシャレな居酒屋やレストランが煌々と明かりを灯して仕事帰りの人々を迎える。  時刻は間もなく終電が迫っている頃なのにどの店にも客は多く、笑顔で酒を飲むその横顔には明日への心配など微塵も見えなくて、通りで腕を抱えてそれを見つめている自分がとても情けなく思えて来た。  行き交う人と肩がぶつかり、反射的に謝罪をすると相手は首だけを曲げて何も言わずに立ち去って行った。  日付も変わりそうな時間帯に普通に通りをこんなにも人が歩いていること自体、彼にとっては珍しい光景で、まるで他所の国にでも来てしまったのか?と錯覚してしまうくらいにカルチャーショックを受けていた。  テレビニュースでも都内の様子は見たことがあるし、面積は小さいのにどれだけ多くの人間が住んでいるのかも常識的に知っているけれど、それを目の当たりにすると言葉すら出なかった。  人、人、人…どうして自分はこんな場所にいるのだろう?早く自分が住むあの静かな田舎に帰りたいと彼は強く思った。  こんな時間に歩いていることに近所の人が気付いたら優しく心配の声を掛けてくれるあの場所に。  でも、今はそれは出来なかった。彼には明日、果たさなければならない仕事があったからだ。それも絶対に失敗してはならないものだ。  そのためにはこの怠い体をきちんと休めて明日に備えることが必要だった。  薬には頼れない。定期的に服用している薬があってそれと睡眠導入剤は相性が悪いからだ。  かと言ってホテルのベッドで横になっていても一向に眠気は起こらず、ただひたすら家電製品の機会音が響く暗い部屋で過ごすのは苦しかった。  彼は足を止めて一件のバーの入り口前に立った。決心するようにシャツの袖を握り込むとその肌にはしっとりを汗が滲んでいた。  一杯だけ飲んだら帰る。元からお酒には弱い上に今の自分の体調を考えればきっと半分だけでも効果は十分出ると彼は見込んでいた。  薬は飲んでる。誰にもバレたりしない。大丈夫。目を閉じてそう言い聞かせると彼は意を決して店のドアノブに手を掛けたのだった。
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