夢の場所

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 前任の人が家庭の事情で急に辞めてしまい、本当に急募で探していたようであれよあれよという間に採用された。とんとん拍子で進む展開に夢ではないかと今でも思ってしまう。  だから終業後の店に必要書類を持っていき、制服代わりのエプロンを受け取った時に思わずこぼしていた。 「あの、採用されてからいうのも何なんですが、女の人の方が良かったんじゃ」  俺が慌てて「店の雰囲気的に! 受かって嬉しいんですよ!」と言うと、あずささんは笑った。 「パンやケーキ作りって力仕事が多いから、男の子が来てくれると助かるわ」  その言葉に少し肩の力が抜け、安堵の息をつく。  雨宮あずささんはこの店の店長だ。俺がこの店を意識するきっかけになった人。接客も丁寧でそれ以上に、困っている人に自然と手を差し出せる人。  俺が初めてあずささんを初めて見た時も、店の中に入るのに手間取っていた杖をついた女性に気づき扉を開けて手を貸していたところだった。でもそれは特別なことではなくて、意識して見るようになった中だけでも何度もあった。自然体で気負いもなく接するその姿と笑顔に惹きつけられ、話してみたいと思うまでに時間はかからなかった。  そんな彼女とこれから一緒に働けると思うと、自然と顔が緩んでしまう。   「何コイツ?」  その時、後ろから声がして振り向いた俺は動きを止めた。そこにはショートの髪をピンクに染め、耳には大量のピアスをはめた派手な女の人が立っていた。濃い目の化粧をバッチリ決めたその眼差しは冷たい。 「コイツじゃないよ。新しくアルバイトに入ってもらう坂巻蓮君。前に言ったよね?」  俺が固まってしまっているのにあずささんは気づいていないようで、呆れたようにそう言った。女の人はあずささんの言葉に、俺のことを値踏みするように上から下まで眺めると、無言で店の奥へ行ってしまった。 「もう! ちゃんと自己紹介くらいしてよ!」  女の人が消えた方へあずささんが文句を言っているが、俺は彼女の視線が無くなったことで、ほっと息をついた。 「ごめんね、不愛想で」 「いえ……あの人もスタッフの方ですか?」  困ったように眉を下げてあずささんが謝って来るので緩く首を振る。否定してほしいような気分で尋ねたが返って来たのは肯定だった。 「スタッフというか、この店の共同経営者で私の姉なの。雨宮紫苑(しおん)っていって服の方の責任者をしてるのよ」 「お姉さんなんですか!」  思わず悲鳴のような驚きの声が出てしまった。二人は格好もそうだが、纏う雰囲気も真逆で身内だとはとても思えなかったからだ。俺が急に大声を出してびっくりしているあずささんに気づいた俺はわたわたと手を動かす。 「え、え~と。店長とあんまり似てなかったので驚いてしまって」 「ふふ、よく言われる。服の趣味とかは違うから。でも、中身は結構似てるのよ?」  そう悪戯っぽく言うあずささんに、俺は『絶対に嘘だ』と胸中で呟いた。 「それで坂巻君にはカフェの方の仕込みもだけど、姉の仕事の手伝いもしてもらうことになると思うからよろしくね」 「が、がんばります」  俺はあの怖そうな紫苑さんと上手くやれる気はしなかったが、ひきつった顔でなんとかそう答えるのが精いっぱいだった。
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