ともだちの兄

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ともだちの兄

「いっちゃん、無花果(いちじく)頂いたの、食べる?」 ガラスのお皿に盛られた紫色の果実がテーブルに置かれた。 「頂きます」 衣千花(いちか)はそっと手を伸ばしす。 指が沈む柔らかさ、ちょうど食べ頃だ。 実は、衣千花の名前は無花果にちなんで名付けられたそうなのだが、字面から連想する人は殆んどいない。 衣千花は爪で先端を引っ掻き、皮を剥く。 現れた白い果肉に歯を立てた。 「いっちゃんは就職決まったの?」 声の主は濡れたタオルを差し出しながら訊く。 「絶賛就職活動中です」 「偉いわねぇ、園美(そのみ)は全然。今付き合ってる彼氏と結婚するかも、とか言ってるし」 「彼氏、社会人ですもんね」 「働いてから一年も経ってない奴に養って貰おうなんて甘いんだよ」 衣千花の背後からにゅっと手が伸ばされ、筋張った手が無花果を摘まんだ。 衣千花は鼓動が高鳴る。 「これってこのまま食えるの?」 返事を待たずにかぶりついた男はモグモグと口を動かしている。 スエットズボンにTシャツのラフな格好をした男は園実の兄の桃琉(とおる)だ。 「見た目の割りに地味な味だな」 その感想がそのまま自分への評価に聞こえて、衣千花は勝手に落ち込む。 「イッチー、ゴメン!遅くなった、今着替えてくる」 リビングの扉から顔を出した園実はそう告げてまた扉を閉めた。 階段を駆け上がる音が聞こえる。 「慌ただしい。あの子もいっちゃんみたいに少しは落ち着いてくれると良いんだけど」 園実の母は苦笑いした。 「ゾノは意外としっかりしてますよ」 衣千花はタオルで手を拭いて、鞄の中で振動するスマホを取り出した。 最新の母からのメッセージだけ確認して、後は無視した。 どうせ録でもない奴からの気持ち悪いメッセージだ。 ソファーの背もたれ越しに覗き込んだ桃琉が、訊ねる。 「相変わらずモテてんの?イッチーは」 「こういうのはモテるって言わないよ」 衣千花に寄ってくるのは、見掛けに釣られた男か、母に取り入ろうとする輩ばっかり。 「そういえば、お母様の事務所に就職しないのかよ。セレモニーコーディネーター百瀬つみき、大活躍じゃん」 「つみきさんは好きだけど一緒には働きたくない」 衣千花はキッパリ告げた。 母には女手ひとつで衣千花を育て上げてくれた恩があるし、家族として愛してもいるが、残念ながら余り共に過ごしたくはない。 圧が強くてエネルギッシュな母といると、内向的だがマイペースでもある衣千花はドッと疲れる。 母もそれには気付いているようで、お互い干渉し過ぎることのないよう配慮していた。 奔放な母には恋人が絶えないし、娘に構われなくとも、さほど寂しくは無かったのではないかと思う。 「イッチーなら接客業もいけそうだよな、外見が目立つから」 「いや、社交性が無いんで。一般事務希望だよ」 そう、恋多き女の娘であることと、自前の顔立ちの派手さから、衣千花には払拭し難いイメージが染み付いてしまっていた。 実年齢より三~五歳老けてみられる事が常の衣千花につけられた渾名は『マダムイチカ』だ。 十代の頃から、壮年紳士の恋人がいるやら、もはや日本人では満足できないなど、根も葉もない噂を面白おかしく吹聴されてきた。 現在、インド人の元ダンサーと沖縄出身の珍獣ハンターと二股をかけていることになっている。 なんかもう、否定すんのも面倒になってきていた。 無花果は果実のような花をつける。 蕾から花開く初々しい姿を周りに見せること無く、いきなり実ったように見せて、ひっそりと内側で花開く。 亡くなった父親が無花果が大好物だったとかで付けた名前だそうだが、大人びた外見の内側で密かに恋心を育ててきた衣千花と重なるものがある。 決して表に出すことは叶わない想い。 だって、衣千花はずっと前から知っているから、桃琉が想いを寄せる相手を。
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