8人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
大好きを押し返すこともできずに、こんなにも時間が過ぎてしまった。
「僕はなんでこんなことを」
はぁと白い息が、無駄に眩しい空へと溶けていく。いっそ自分も消えたい気持ちと共に、抱えた缶コーヒーの熱さがじわじわ染みた。
小さな公園で、養護教諭である僕が、ちょっと小綺麗なニットカーディガンを選んで羽織り、男子高校生がやってくるのをベンチに座って待っている。弁解はいくらでもしたいが名目上は言い逃れようもない、生徒と男同士で休日デートの約束だ。
(とにかく、今日一日轟くんに責任を持って付き合ったら、きちんとお断りしなければ)
手のひらが焼けそうなほど缶をぎゅうと握りしめ、何度も確認した自分の役割りをまた固く誓う。
轟君は、良く晴れた空のようにカラリと笑う一年生だ。僕より身長も体格も良く派手な赤髪と目立つピアスをしているが、人懐こく常に誰かに呼ばれては輪の中にいる。色んなタイプの子に分け隔てなく、自然と胸を貸しているような「いいやつ」だ。轟君に大丈夫やで!と包み込むようにニコニコ言われると、人と会話する時つい汗ばみ目を逸らす僕でも肩の力が抜けるように心が軽くなった。
轟君の大丈夫は、とても説得力がある。
人の良いところを見つけてあげるのがうまく、僕のささやか過ぎる長所も大事に拾って磨いて持たせて大丈夫を添えてくれる。生徒相手に、心地好いとか考えたのがきっともう駄目だった。
(俺、先生の真面目で頑張りやなとこ大好きやで)
人は、吹雪の中で招かれた山小屋で、温かいシチューなんかをもてなされたらつい心をグダグダに許してしまうように。一ヶ月前のあの日、大丈夫やでの優しさについ長年抱えた要領の悪さとコミュニケーションの下手さへの弱音まで吐露してしまった僕に、轟君はやはり分け隔てなく胸を貸してくれた。
おかしな話だとわかっている。
涙目で生徒に弱音を聞いてもらう教員なんかおかしい。感極まってわりとみっともない無い明け透けな喜びを伝えたことも、それで僕を好きだと確信する轟君も、おかしい。轟君の思う可愛いの基準がおかしい。
不意を突かれてキスされてしまったのも、それがファーストキスだったのも、責任を取らなくてはと焦った結果、デートすることになったのも全部がおかしいとわかっている。
やわらかかったと夜に思い出し、その晩は自己嫌悪で眠れなかった。まともにお付き合いをした事もない僕の許容量は、どうやらキス一つで簡単に超えてしまうらしい。布団を蹴飛ばしベッドで丸くなり、文庫本の一つも頭に入らない文字を目で追った。頭に文字でも何でも詰めないと、反芻する轟君の声が、指が、感触が。良い先生でいようとする感情の内側を撫で回すから。
かっこ悪くて情けなくて僕は小学生かと、そのまま空が白んでいくのをぼうっとした頭で知る。こんなことで一晩が明けてしまった。少し涙ぐみつつも、轟くんのせいでと責める気持ちにもなれなかった。
「初ちゅーや」
唇が離れた時、放課後の暮れるオレンジに満たされた保健室は白昼夢のように美しかった。
学校で働く医療職員に気の迷いを持つ生徒なんて毎年学校行事の数ほど聞く。人付き合いの下手な僕でも、興味を寄せられるのはこれが初めてではない。ただそれは「一本木先生意外と綺麗な顔してるよね」とか「一応美人だし、一本木先生でもいいかも」など微妙なものばかりだったが。その度、曖昧に笑って不恰好な断りの言葉を重ねたら、それであっさり収まった。
そもそも視線もあまり合わない養護教諭相手に、思春期の子どもがからかいたかっただけかもしれないけど。生徒にいちいち応えていたら、教員なんて務まらないと知っている。
でも。
轟君は心の大事な柔らかい部分を明かしてくれるようにはにかんでいて、いつも誰かをお兄ちゃんみたいに包み込でいる笑顔が、その時だけ小さな男の子に見えてしまった。幼い子が両手にキラキラと抱えた宝物をそっと見せてくれるような告白を気の迷いだとも断罪出来ずに、僕は。
無垢な心を傷つけるのを恐れて、答えを先送りにした。
一ヶ月も。
銀杏並木の見事な公園がすぐ近くにあるので、こちらのささやかな公園の土曜日には幸い人の姿も乏しい。
(せめて綺麗で無害な思い出として今日で終わらせてあげたいとか、自分勝手な感情だけど)
美しく正しい指導をと考えるならあの場で話を終わらせるべきだったと、待ち合わせに来てしまった今思っても、もう遅い。そんなことが出来るほど器用ならデートなんか来ていない。この一ヶ月たしなめることも明確に断ることも出来ず、でもとだってを繰り返す僕に轟君は笑って頷きながら、決して引くことはなかった。
いい加減になんとかしなければ。
とにかく、今日は、絶対に流されない。
不器用で不甲斐ないとはいえ、僕はこれでも教員なんだ、やるべき時はやる……多分。一ヶ月連敗続きで若干自信を失いながら、公園の柱時計はカチリと約束の時間の30分前を指した。
「一本木先生!めっちゃ早いやん!今日も美人さんやなぁ」
短い丸太風の公園入口に、眩しい赤髪とブンブンと振る元気な手のひらが目に入る。すっかり聞き慣れた明るい声を、休日に外で聞くと不思議な感覚だ。
廊下を早足に駆けてくる上靴と同じ足取りで、スニーカーが土の上を跳ねた。他の生徒たちの声も、まばらに駆ける音も、校舎の反響も無い。控えめな木々の風音と、轟君の全てが嬉しそうな音がただ向かってくると、僕までちょっと楽しい気持ちになってくる。
切れ長の目にスッと筋の通った鼻梁、整った顔立ちを惜しげもなくくしゃっと崩しているのが微笑ましい。器量が良くて可愛いのは轟君の方だろう。
(大きなわんこみたい)
手放しの笑顔が自分めがけて駆けてきて、胸がぎゅっと……。
「デート服、可愛いやん」
デート、の言葉に慌てて正気に返る。
「と、轟君今日は純粋なデートじゃなくてですね……」
不覚にもキュンとしている場合では無い。
連敗記録を伸ばす気か。
「デートやろ。可愛いかっこ見れて嬉しいなぁ」
轟君はデレデレという効果音が聞こえてきそうに崩れた顔でベンチまで来ると、ピッタリと僕の隣に座った。
なんでこの子は僕なんかをこんなに好きなんだろうと不思議でしょうがない。大きなトレーナーにデニムが学生らしくて僕より余程可愛らしいとも思う。僕のような20代後半の成人男性に可愛いと形容する方がおかしいと心底思うけど、男だから成人男性だからと古い価値観を生徒に押しつけて否定する行為になるのか…とまた余計なことを考えてしまい迷って迷って。
「あの……有難うございます。轟君の方こそ僕は可愛いと思いますよ」
一番教師からかけ離れた素直な言葉を選んでしまう。
「嬉しいなぁ。先生有難う!」
デートっぽいと、ますますニコニコさせてしまい、頬に血が集まり手が汗ばむのが自分でもわかる。落ち着け今日こそ教員として僕は……と、コーヒー缶を思わずまたギュッと。
ブシャッ!
「あつっ!」
握り潰してしまい熱々のコーヒーが、口元まで跳ねた。待ち合わせの間にずっとぎゅうぎゅうと缶がボコボコになるまで握っていたからか。
ああ……なんで、いつも僕はこうままならないんだ……。
「一本木先生、大丈夫?顔に跳ねたやろ」
轟君の指が近づいた。
「ちょっと見せて」
あの日のように僕の顎をそっと掴み、鼻先が触れそうになる。
「唇の下、赤なってんなぁ」
お互いの瞳に何が映っているのか確認できるほど距離を失い、この体勢は……まずい。二人ピッタリ座ったベンチで、大きな轟君に覆うように覗き込まれたら逃げようがない。
「轟君、だい…じょ……」
駄目だ、と思う間に長い指は。
「俺、オロナイン持ち歩いてんねん」
呆気なく離れた。
……何もされなかった。
意識し過ぎて恥ずかしく下唇を噛んだ。一度キスされたからと身構え過ぎた自分に悶える。
「弟と甥っ子がちっこくて、よぉ公園で転ぶから」
轟君は手際よく小さなチューブをボディバッグから取り出すと、長い指が僕の顔をまた捉えた。大きな指先が温かい。自分で塗りますと口にする間も無く、ちょんと控えめにクリームの感触が触れた。
(相変わらず、体温が高い……)
微かな薬剤の香り。唇のすぐ下を一瞬ぬるりとなぞる。
「痛ない?」
まだ鮮明なキスをした記憶の隣を、辿るように。
「……痛みは大丈夫です」
もどかしくゾクリとしたものが背中を駆けた。
(帰ってから自己嫌悪するくらいなら、こんな感覚にならなければいいのに)
轟君は、心配して僕に薬を塗ってくれただけだ。有難うございますとくすぐったいような顔を戻せないまま唇を抑え、薬をしまう横顔をじっと見詰める。
視線に気づいたのか目が合うと、う……と何故か轟くんは肩を揺らして目を細め、手早くハンカチを取り出した。
「……鞄もちょっと飛んだから綺麗しとくで」
保健室に顔を見せに来る時も、いつもさり気無くビンのフタを直したりコーヒーを書類から離してくれたりしていた。本当によく気のつく優しい子だ。
傷つけたくないな。
(口に指が触れても、やっぱりキスされなかった)
あっという間にキスされてからこの一ヶ月、轟君は全く触ってくることが無かった。
毎日のように保健室に足を運びつつ、少し話したらまた明日!と手を振って帰る。そばにいるとドキドキするのに陽だまりにように暖かく、最近は少しだけ……ほんの少しだけ、帰り際が寂しい。またキスされたら当然困るけど、体温がわかるほど近づいたのは今日があの日以来だ。
あんなに一緒に居たのに、轟君の気持ちがわかりやすいようで肝心なところが全然見えない。この子の好きは今どこを漂っているのか、雲のようにふわふわと近くて遠い。
「なんで顔に触れても……」
思わず余計な言葉が口から滑り出る。
「……先生、キスされるかと思った?」
今度は僕の肩が揺れた。
理性的な大人でいようと決意していた自分を、瞬間ボッと顔に火のつく熱が通り越す。口を開けば汗が流れる僕には、理性的でスマートな大人なんか遠い幻想だとわかりきってはいたけど。
「その、これはですね」
轟君は。
「せえへんよ」
好きだと言った時のように、小さな男の子の顔で笑った。
「え」
緑ばかりの公園の風が、火照った顔に心地良い。
「この前は好きって気持ちを伝えたくて気づいたらしてたけど、先生やもんな」
にかっと見える小さな八重歯が眩しく、返す言葉を見失う。
「次は卒業まで待つから」
「次って……」
「キスも、付き合ってもそれまでせえへん。何もせえへんからこうして一緒にいるくらいは勘弁な」
ごめんね先生だから生徒とは付き合えません、と言うはずだったのに。
「俺、いくらでも頑張って我慢するから」
出来るだけ傷つけないように振り払うはずだった手が、あっさり離されて呆然とする。
「それにな、先生」
轟君は自身のほんのり色づいた頬を、恥ずかしそうに指でかいた。
「次にキスするときは、一本木先生も同じくらい好きになってくれたら、したい。先生の気持ちが一番大事や」
そうか。
この子の心が遠いのは、僕のためか。
「だから、卒業までに好きになってや」
僕には勿体無いぐらい可愛いらしい恋だと思うと同時に胸に突き刺さる。僕は轟君の高校の養護教諭で、その上お互いに男だ。卒業したら生徒じゃなくなるので、と軽々しく踏み出す立場じゃない。
「生徒と付き合ってがあかんのは知ってるから。俺が一本木先生をめっちゃ好きで好かれたいって自分で思うのは自由やろ」
断らなくてはいけない、でも何を?何もしないと言う子に、何も生み出さない好きな気持ちは捨てろと僕は言うのか。
磨き上げたように鮮やかな空が、眩しくて痛い。
轟君はたくさん人に好かれる、本当の意味でかっこいい子だ。僕がうまく断ればもっと良い出会いがそう待たずとも巡ってくるだろう。
そんなカビの生えた価値観の型が安易に過ぎって自分が嫌いになりそうだ。
(何もせえへんから)
無欲で純粋で、先の無い恋。
人影の乏しい公園で本当に良かった。ただチラチラと、たまに木々と雑草を風が撫でる殺風景な場所は、きっと高校生の記憶にもおぼろにしか残らない。
僕の返事を待っている少年の目に、胸を落ち着けて口を開く。
何にも無いこの公園の、何でもない時間。
「……僕は、今日ここへ断りに来たんです」
僕が断りさえすれば。
今日終わりにすれば。
空っぽの公園で空っぽの思い出が増えるだけ。そう強く思うほどに。
(俺が一本木先生好きで好かれたいって自分で思うのは自由やろ)
壊れそうにやわらかな笑顔が浮かんで、感傷的にまた胸を刺した。
(馬鹿だね、僕は……)
小さな風が止み、僕の言葉も止まる。優しい悪役になるのを躊躇っていたら、昨日とまた何も変わらない。
わかっている、知っている。僕がしっかりしなければいけない。じっと真っ直ぐに僕の言葉を待つ瞳を、可愛いと思うならなおさら。
(先生の気持ちが一番大事や)
それなのに。
……。
ずるいな。
僕は、ずるい。
「……なのに、付き合うこともキスもしないで、ただ好きでいるって」
轟君のため、轟君の未来、轟君なら僕じゃなくても。
「そんな風に言われたら、断ることも出来なくて」
それでも、僕の気持ちが一番と言われてしまったら。
「……嬉しくて……困ります。」
選んでくれて嬉しかったと、理想論の底の本音が開いてしまう。
轟君は良い子だ、とても素敵な子。
こんな素敵な子に温かく握られた手を離せないまま、時間は流れるように過ぎてしまったから。付き合うことに首を縦に振れないのに、押し返すことも選びきれずに大好きの余韻に立ち尽くしてしまう。
こんなに愛らしい大好きをもらったら、いつか巡り合う誰かや何かに譲るのが惜しくて動けない。今はまだ何もしてあげられないのに、たくさん綺麗な心を分けてくれる轟君に僕も、あげられる心があるならと。
口から出て初めて目眩と共に立場をわきまえない高鳴りがどっと押し寄せて、気が遠くなる。晒す予定の無かった分岐点の先の横道へ、厚かましく足を踏み出したのは自分なのに轟くんの反応を見るのも怖い。恋と呼べるかもまだわからない、自覚したばかりの一番自分勝手で無様な感情を引きずり出してしまった。取り繕えばまだ引き返せるだろうか、とずるい自分も見透かされている気がする。
「先生」
噛み締めるように上擦った轟くんの声に、一際ドキリとした。
「キスせえへんから、後ろから抱きしめていい?」
「だ……」
「イルカセラピーみたいなもんや。やましいことはまだせえへんから」
まだとは…と固まっているうちに肩にふわりとマフラーのように、触れるだけの腕に包まれる。背中に体温と呼吸と、轟君の全てが近い。
「何もせえへん」
「……轟君こ……これ、何もしてないって言うんですか?」
「あったかいやろ?」
僕の心臓はますます早くなるが、背中にも同じ速さの鼓動が響いていると気づいて無性に甘酸っぱいもので満たされた。この感情を、愛しいと呼ぶのかもしれない。
「本当はもう、ぎゅっとしたいけど、我慢するから」
触れているわけでもない胸の奥が、ぎゅっとする。
「……待ってくれても、僕はいま何も出来ないですけど……」
もう数センチ近づけば触れそうな頬に、情けないことに不恰好に歪んでいるだろう熱い顔を向けることもできやしない。
「それでも待つと言ってくれるなら、僕も」
その時は……応えたいです。
全部未来へ放り投げた歯切れの悪い答えと、僕を包む腕に手をせめて重ねた。
何を、どうとも言えない、足元のふわふわと浮いた曖昧な答えしか出せ無いけど。離すはずの手を握り込み、捨てるはずだった僕の汚れた心を、轟君のとびきり綺麗な大好きと一緒に宝箱に入れた。
「一本木先生、焦らんでええから」
穏やかに頭を撫でるような声。轟君の方が余程先生のように、包んでくれる。
「今はそれで充分過ぎるほど嬉しいから、先生から大好きってもらえるまでゆっくり待つで。俺まだ一年生や」
一年生。
現実にくらくらする。簡単に振り払えそうなやわらかい抱擁から、逃れようともしないまま僕は。
まだ高校一年生それは……。
待つ間が長いなと白い息を、人の気も知らない綺麗な青空へまた溶かした。
最初のコメントを投稿しよう!