橘とuta

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「私が初めて亮くんに会ったのは、彼が小学3年生の頃でした。 私は大学生の時に画材店でアルバイトをしていたんですが、そこはかなり専門的な道具も扱っていて、美大の生徒さんや先生たち、プロの方までが御用達の店だったんです。 地元ということもあって、嶋宗先生も利用してくださってました。奥様がよく画材を買いに来てくださっていて、それで親しくなったんです。 大学も4年生になって就職をどうしようかと悩んでいた時に、奥様がウチに来ないかと言ってくださって。それで、嶋宗先生の事務所で働くことになりました。 事務所に入って数ヶ月経った頃に嶋宗先生のお宅にお邪魔しました。その際に、亮くんに会いました。 まだ9歳だというのにものすごく整った顔をしていて、綺麗な男の子だなという印象でした。そして驚いたのは、彼が描く絵です。色使いや描写の仕方が独特でしたし、とても小学生のものとは思えなくて。 亮くんのお父様…嶋宗先生の息子さんは公務員で、芸術とかそういうものとは関係のない仕事をされていたので、より驚きました。 亮くんの描く絵には…何と言うか、心を揺さぶられるんです。どうしてまだ9歳の男の子がこんな絵を描けるのかと不思議で。でも…あぁ、やっぱりこの子は嶋宗先生の血を引いているんだなと、妙に納得したりもして。 嶋宗先生も亮くんの才能を認めていて、芸術家の道を歩んで欲しいと考えていたようです。亮くん自身も小学校の高学年になる頃には、嶋宗先生のような画家になりたいと話してくれていました。 亮くんのデビューに関しては、事務所内で何度も話し合いが行われました。嶋宗先生の孫ということを公表すればすぐに話題になることは間違いないのですが、それでは亮くんの絵の素晴らしさが埋もれてしまう。それ以外で、インパクトのある売り出し方はないものかと色々相談していて…そしてある時に、海外のチャリティーオークションの記事を見つけたんです。 それは一般人でも出品できるオークションで、さらには慈善活動に熱心な海外セレブが集まるイベントだということだったので、これは使えると思いました。万が一にも亮くんの作品がセレブたちの目に止まれば、一気に名前が売れるかもと考えたんです。そして案の定、あの当時世界的に大人気だったハリウッド女優が、亮くんの絵に高値をつけました。 あ、ちなみにuta(ウタ)というのは、リョから取ったんですけどね。アルファベット表記にしたのは、その方が海外の方にも認識されやすいと思ったからです。 まぁ、そのオークションがきっかけで、utaの名前は一気に広まっていきました。亮くんが中学に入学した頃でしたか…。その後の活躍ぶりは長瀬さんもご存知のところですよね。 亮くんはまだ学生だったので、顔出しはしませんでした。utaは、国籍も年齢も性別も謎のままということに。でもそれが逆に、世間の興味を引いたみたいで…結果的には大成功でしたね。 中学、高校と、亮くんの創作活動は順調でした。高校を卒業したらメディアに顔出しをして、その後は本格的にアーティストとしてやっていこうと準備もしていたんです。 それなのに卒業式の日…あんな事件が起きてしまって。」 そこまで一気に話した神崎はグラスの水を飲み干すと、ふぅと息を吐いた。 通りかかった店員が、持っていたピッチャーから空いたグラスに水を注いでくれる。 神崎が、イスに深く座り直した。 「事件のことは…長瀬さん、聞いてますか?」 その言葉に、店員がチラリと視線を向けてきたのがわかった。「事件」というワードに反応したのだろう。 しかし二人のただならぬ雰囲気を察したのか、「ごゆっくりどうぞ」と微笑みかけるとすぐに、テーブルを離れて行った。 ももはゆっくりと頷いて、「はい」と一言だけ発した。 そしてそれを確認した神崎は、一点を見つめながらまた話し始めたのである。
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