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『ciel』と小さく刻まれている大きな分厚いガラス戸を押し開けるとそこは、少し暗めの照明の中にオシャレな音楽が流れる空間。壁は全面ガラス張りで、今はまだオレンジ色の残る空と、灯りがつき始めた街並みを見渡すことができる。
綺麗…。
ももは正面に広がる景色に、しばらく見惚れた。美術館のある12階から見える景色もなかなか壮観だが、この店からの景色はまさに圧巻。
「…もも?」
声のした方を見ると、カウンターの横に青山が立っている。
「…あ…。」
心臓が少しずつ速くなっていく。青山はももの顔を見るなり、とびきりの笑顔になった。
「いらっしゃい。来てくれたんだね。」
「…うん。」
ももが恥ずかしそうに笑うと、青山はどうぞ、とカウンターの椅子を引いた。半円状のカウンターには10席あるのだが、その奥から二番目の席。ももがいつも座っていた席だ。
手前の席よりも真ん中の席よりも、そこが好きな理由があった。
「ビール?」
青山がカウンターの中に入り、グラスを手に取る。
「うん。」
ももは、青山の後ろ姿を見つめた。
透け感のある黒髪。綺麗に刈り上げられた襟足から醸し出される色気が半端ない。体つきが逞しくなったような気がする。ジムにでも通い始めたのだろうか。
「はい、ビール。泡少なめね。」
青山はももの前にグラスを置くと、からかうような顔をした。
「それと…。」
そう言ってグラスの横に置かれたのは、ももが好きだったツブ貝のアヒージョ。
「…え。」
「もしかしたら今日来てくれるんじゃないかと思って。ちょうど今、作ってたとこ。」
これを幸せと言わずに、何を幸せだと言うのか。湧き上がってくる興奮と不安に言葉が出ず、ももはビールを一気に飲んだ。そんなももを見ながら、青山がクックッと笑う。
「俺、今日はあと一時間で上がりだから。そしたら一緒に飲もう。待ってて。」
片眉を上げる癖も相変わらずで、ゾクゾクする。
ももが青山と出会ったのは五年前。新入社員として美術館に入社した22歳の時だ。その時も吉田館長や他の先輩たちに連れられて、このバーに来た。
当時、青山は25歳。
まだ店長ではなかったが、そのイケメンぶりと接客の上手さから、青山目当ての客も多いようだった。
カッコいい人だとは思った。しかし、彼女がいると公言していた青山は、ももにとってはどうでもいい存在で。したがって、仕事終わりにたまに飲みに行く店の店員と客、という関係は三年以上続いたのだが…。
その関係性が変わったのは、一昨年の秋。
その日ももは、彼氏だと思っていた男に騙されて荒れていた。何も食べず浴びるようにビールを飲み続けるももに、青山が声をかけた。
「ももちゃん、彼氏と何かあった?」
この頃ももと青山は、お互いの恋人についても相談し合うほどの仲になっていた。
「…騙された。彼氏なんかじゃなかった。」
ももは、手に持ったグラスを睨んだ。
同期の藤堂に勧められて登録した出会系アプリ。そこで知り合った男が、詐欺師まがいの最低男だったのだ。
「散々貢がせといてあの男…連絡も取れないし、どこにいるかもわかんない。」
「良さそうな人だったのにね。」
青山が苦笑いをする。
「あーあ、アプリなんかに頼るんじゃなかった。結局私には、そんな男しか寄ってこないんだからさぁ。」
はぁっとため息をついて、ももは頭を抱えた。すると、その頭を優しく撫でながら青山は、
「…じゃあさ、俺と付き合う?」
と言ったのだ。
思いもよらない提案に、ももは恐る恐る顔を上げた。
「もう、ももちゃんが辛い思いしてるの見てられない。」
その時、優しく微笑んだ青山の本心がどこにあったのかはわからない。しかし、その提案を成り行きで受け入れたにも関わらず、ももは青山にどっぷりとハマっていくことになった。
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