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青山はいつも優しくて大人で、ももの毎日は満たされていった。それまで男とまともに付き合えたことなどなかったし、大切にされているという実感もなかった。
だから青山と過ごす日々はとても幸せで、ずっとその先も続いていくものだと勘違いしてしまっていたのだと思う。
今思えば青山にとって、ももとの一年間はただの暇つぶしのようなものだったのかもしれない。だとすれば、あの日のあのことも自然な成り行きだと思えるし、むしろそう思うようにしてきた。
ももは、バーの大きな窓から見える夜景を眺めた。
青山と付き合い始めてからは、この店に頻繁に顔を出した。いつも、この奥から二番目のカウンター席に座り、店の中を動き回る青山を目で追い、たまに他の客を観察し、それらに飽きると窓から見える景色を眺めた。
そうやって過ごす時間が、ももは好きだった。
「おまたせ。」
いつの間にか一時間は過ぎてしまったようで、青山がニコニコしながらももの隣の席に座った。カウンターの中にいる大学生風の男の子に「ビール」と声をかける。
「もも、今日はおかわりしないの?」
「あー…うん。昨日飲みすぎちゃったしね。」
ももは苦笑いをした。実際、そこまで酒を飲む気分でもない。
「店長、もしかして彼女さんですか?綺麗な方ですね。お似合いです。」
青山の前にグラスビールを置いた男の子は、無邪気な顔で笑った。
おそらくこの子は、ももと青山の関係を知らないのだ。半年前には見なかった顔。接客の様子を見ると、最近入ったばかりの新人なのかもしれない。
「あ、違…。」
ももが慌てて否定しようとすると、青山がももの肩を抱いて引き寄せた。
「だろ?」
そう言って笑う。
…え。
ももの胸の奥が、トクンと鳴った。
「羨ましいですよー。俺もこんな綺麗な彼女欲しいっす。」
「お前にはまだ無理だな。」
「えー。ひどいなぁ、店長。」
青山と男の子は楽しそうに話をしているが、ももにはその声がどんどん遠のいていった。青山が触れている右肩が熱い。
…何で。
何で翔太はこんなこと。
何で否定しないの。これじゃまるで、本当に付き合ってるみたい。
体を固くしたももに気づいたのか、青山が顔を覗き込んでくる。
「もも?どうした?」
どうしたもこうしたもない。危険、危険と、頭の中でサイレンが鳴っている。それなのに湧き上がってくるこの高揚感は何だろう。
「…ううん、何でもない。」
カウンターの上のグラスを見つめながら答えた。
青山が、クスッと笑う。
あぁ、ほら。これがこの男のやり方。
こうやって、こっちの気持ちをかき乱す。やっとわかったのに…わかってるのに。私はまた、同じことを繰り返すんだろうか。
ゆっくり瞬きをする。
「もも。…今夜、ウチ来る?」
急に耳元で囁くように言われ、ももは驚いて青山を見た。思いのほか顔が近くて、戸惑う。少し動けば唇が触れそうな距離。
青山の手が、ももの肩から腰へと移動した。
「久しぶりにももとさ、ゆっくり話したい。」
少し厚めの唇が、そんな甘い言葉を吐いている。
大好きだったこの唇。
温かくて心地良い唇。
その感触を思い出すと、良くないとわかっているのに流されるのもいいかと思ってしまう。
ゆっくり話したい、というのは。
それはつまり、そういうことでしょ?
自分の気持ちがわからず、青山と目が合うのもなんだか怖くて、ももは顔をそらした。
しかし、そらした先に見えたのは…。
店の入口に亡霊のように立っている橘の姿。
「え、なんで。」
ももの顔が引きつった。それに気づいた青山が、ももの視線を追う。
「え、誰?」
二人に気づいた様子の橘が、ゆっくりと近づいて来た。ゆらゆらと。
子どもの頃に見たアニメの中に、こんな妖怪がいたな、と思い出す。
「橘くん?何で…。」
やだ。見られた?
橘は座っている二人の横に立つと、覆い被さるように首を伸ばした。
「も、ももさん…。バタ戦、の…DVD…も、持って、きました。」
そう言う橘の手には、おそらく『バタフライ戦記』と思われるDVDのパッケージがあった。
実際のところ、ももは『バタフライ戦記』を真剣に観たことがないので、パッケージの絵を見ただけでは判断できないのだが。
「誰?」と、青山が口パクで問いかけてくる。
「…あ、ウチの新入社員の橘くん。」
橘を青山に紹介しているこのカオスな状況に、ももはとりあえず笑うしかない。
「なんだ。まだ仕事残ってたの。」
スルッと青山の手が離れる。
「いや…仕事とかじゃ。」
橘が一歩前に出てきた。
「く、熊倉先生に、会う前に…み、観た方が…。」
おかまいなしに、二人の間に入ってくる。
別に今、観なくたって。熊倉悠に会いに行くのは再来週だよ。
とことん空気が読めないのか。それとも、わざとなのか…。
いや、この感じは本当にDVDを観せようと思ってるんだろうな。
「仕事なら仕方ないね。」
青山が立ち上がった。
「ごめんね、もも。引き止めて。」
「あ、ううん。こっちこそ…ごめん。」
仕事じゃないんだけどなぁ…。
少しの名残り惜しさを感じながら、ももはバッグを取ろうと後ろに手を回した。すると、その手に青山が触れた。
「また連絡する。」
小声で言うとニコッと笑い、橘の方に振り向いた。
「橘くん?だっけ。ごめんね。もものこと引き止めて。」
「い、いえ…。」
橘は一歩下がると、メガネを直した。
「でもさぁ、ちょっと遠慮してほしかったなぁ。状況、見ればわかるでしょ?」
青山は笑顔だが、言葉には棘を感じる。橘は何も言わず、メガネを指で抑えたまま動かない。
「ご、ごめんね。私の教育不足。」
ももは慌てて立ち上がると、橘の腕を掴んだ。
「行こう。橘くん。」
掴んだ腕を強く引っ張る。
恥ずかしい。完全に橘に見られた。
元彼にいいようにされているダサい女。そんなふうに思われただろうか。
店のガラス戸を開けた時に、後ろから「またね」という青山の声が聞こえたが、ももは振り返らなかった。
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