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cielを出ると無言のまま、ももと橘はエレベーターに乗り込んだ。ゆっくりと扉が閉まり、エレベーターの中は沈黙に包まれる。
ももは階数ボタンに指を置いたまま、そのボタンを押すことなく見つめた。背中に、明らかな橘の視線を感じて苛立つ。
「…朱里に聞いたの?」
ももは、振り返らずに尋ねた。
「…え?」
「私が青山さんの店にいるって、朱里から聞いたの?」
少し口調が強かったからか、橘の息を飲む空気が伝わってきた。
「と、藤堂さんは…心配、してました…。」
ボソボソと話す橘に余計に腹が立つ。
朱里に聞いたのかって聞いてんだから、それに対して答えればいいでしょ。心配してたとか、そういうこと聞いてんじゃないし。
大人げなく、細かいところがいちいち気に障る。
「だから?わざわざDVD持って、私の様子を見に来たの?」
勢いよく振り向くと、橘の体がビクッと震えた。メガネの奥の目がうろたえている。知ったことではない。
ふん、と橘を睨みつけると、ももはまた前を向いた。
「ぼ、僕は…ももさんに…。ば、バタ戦のDVD…渡そうと。」
はいはい。そうだったよね。
あなたは単純に純粋に、DVDを観て欲しいだけなんだよね。
そう、心の中で悪態をついた。
本当はわかっている。
今夜青山が誘ってきたのは、ただの気まぐれなのだということ。もものことがやっぱり好きだとか、もう一度付き合いたいからとか、別にそういうことではない。そしてその誘いに浮かれて、多少なりとも期待したバカな自分。
さらに言えば、都合の良い女になり切る覚悟なんて本当はなかったから、橘が現れた瞬間にホッとしたのも事実だということ。
悔しい。
そして恥ずかしい。
1階のボタンを力強く押すと、エレベーターが静かな機械音を立てて動き出した。橘は黙ってしまった。重苦しい空気と、エレベーターが下降する感覚に具合が悪くなる。
27階から1階まで降りるのには一分もかからないはず。それなのに、その時間がものすごく長く感じた。
ようやく1階に着いて、扉がゆっくりと開く。ももがその扉をすり抜け、足早に出ようとしたその時、後ろから腕を掴まれた。
驚いて振り向くと、DVDを片手に握りしめたままの橘が、もう片方の手でももの二の腕を掴んでいる。すぐ斜め上に橘の顔があった。
「何…。」
メガネの奥の瞳と目が合う。憂いを帯びたような眼差し。
この目…今朝のと同じ。
ももの心臓が速くなる。
「…何…?」
すると橘がおもむろに口を開いた。
「ももさんは…青山さんのこと、まだ好きなんですか?」
そう言って、もものことをじっと見つめる。
「…え。」
「好きなんですか?」
橘の目が冷たい。
何もかも見透かされているようで…怖い。
ももは思い切り、掴まれた腕を払った。
「橘くんには関係ないでしょっ…。」
橘が、ほんの少しだけよろめく。しかしそんなことは気にも止めず、ももは小走りでコンベンションセンターの外に出た。
チラリと後ろを見るが、橘が追ってくる気配はない。ほうっと息をつき、ちょうど通りかかったタクシーに手を上げた。
何なの、さっきの橘くん…。やたら真剣な顔してた。
それにいつものあのキモい喋り方はどこ行ったのよ。めちゃくちゃスムーズに喋ってたじゃん。まるで、今朝のあの男みたいだった…。
と、そこまで考えて、そういえば今朝のあのキラキラ男子=橘だということを思い出す。
もうワケがわからない。
ももはタクシーに乗り込み自宅の住所を告げると、後部座席に深く座って目を閉じた。
まだ心臓がドキドキしている。
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