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翌日出勤したももを見るなり、倉嶋が小走りで近づいてきた。
「あっれー、長瀬さん。今日何か雰囲気違わないですか?」
そう言って、ももの姿を上から下までじろじろと見る。小走りしてきたのに、前髪が一切崩れていない。さすがナチュラルキープ。
「…別に。違わないと思うけど。」
「そうですか?じゃあメイクが濃いだけかなぁ。」
は?失礼な。
「もしかして。今夜、飲み会のあとはデートとかですか?」
倉嶋が体を寄せて、クスクスと笑う。
「はぁっ?」
ももは少し動揺した。
やっぱこういう女子って勘が鋭いな。こっわ。
「倉嶋さん、人のことより自分のこと。作業に支障出るからスカートは控えてって言ってるでしょ。」
いつの間にか、藤堂が倉嶋の後ろに立っている。
「えー。でもスカートかわいくないですか?」
倉嶋は膝丈のふんわりとしたスカートを広げてみせた。
「あのね。かわいいとか、そういう問題じゃないの。」
ほら朝礼始まるから行くよ、と倉嶋を促しながら、藤堂がももに目配せをした。ももは、苦笑いで返す。
確かに。倉嶋の言う通り、今日は少し気合を入れてきた。
足が細く長く見えるシャドウストライプのフレアパンツに、トップスは鎖骨が綺麗に見える広めのVネックのカットソー。後ろで束ねた長い髪も毛先だけ巻いてきたし、眉毛とアイラインには赤を忍ばせた。
デート、ではないのだが、ある意味では倉嶋が言うことは当たっている。一人の男に良く見られたい、という意味では…。
「…お、おはよう、ございます。」
後ろからぼそぼそとこもった声が聞こえたので振り向くと、橘が立っていた。
「おはよう。」
一瞬で、ももの顔が歪む。
橘は今日もしわしわのスーツに身を包んで現れた。おそらく昨日と同じスーツ。寝癖もひどい。
「橘くん…もう少し見た目に気を使えない?スーツにアイロンかけるとか…せめて寝癖くらいなおしてから出勤して。」
「…え、そんなに、ひどい…ですか?」
うっそ。自覚ないの?
ももはため息をつくと、バッグからヘアオイルを取り出した。
「これ、私のだけど使って。少しは髪の毛落ち着くと思うから。」
「あ…ありがとう、こざいます。」
そう言って伸ばしてきた橘の手が、ももの手に触れた。ざわっと鳥肌が立つ。
慌てて手を引っ込めたのだが、橘は気づいていない様子だ。
「あの…。」
橘がヘアオイルの容器を握りしめながら、背中を丸めた。
「も…ももさん、今日、き、綺麗ですね。」
「…え。」
朝礼のために集まってきた他のスタッフの動きが止まった。皆の注目が2人に集まる。ももの顔からは血の気が引いた。
「…あ、ありがとう。」
引きつったままの顔で一応お礼を言うと、橘はメガネを直しながらニヤッと笑った。
事務所の中が静まり返る。皆の興味と動揺が伝わってくる。
無理。しかも名前呼び。
勘弁して。
「おはよう」と、館長の吉田が入ってきたことで、事務所内の止まっていた時間が動き出した。
ももは、ほっと胸をなで下ろす。
橘は何も気づいていないようで、ももが渡したヘアオイルを手にしたまま吉田の話に耳を傾けている。ももは横目で、その橘の手を見つめた。
さっき手が触れた時の感触がヤバかった。ひんやりとしててすべすべしてて…。よく見れば、指も細くて長くて綺麗。爪だって短く切り揃えられている。こんなに外見に無頓着なのに、何で手だけは綺麗なの?
ももは、少し苛立ちを感じながら首を傾げた。
朝礼後、大展示室は大騒ぎとなった。開館時間まであと30分だというのに、メインの巨大パネルが斜めになっていることが発覚したのだ。スタッフはそれぞれの持ち場の準備があるため、倉庫の整理をする予定だったももと橘が、修正作業をすることになった。
巨大パネルの前に脚立を置くと、ももは壁を見上げた。おそらくパネル上部の左側が、壁に取り付けられた固定器具から外れてしまっていると思われる。
「私が下からパネルを持ち上げるから、橘くんは上を固定してくれる?」
はい登って、と、ももは脚立を押さえた。しかし橘はその場に立ったまま。
「橘くん、早く。時間ないから。」
「いや、でも…僕。」
橘は脚立を見上げた。
「ぼ…僕、高いところ、に、苦手で…。」
「はぁっ!?」
大展示室にももの声が響く。
呆れた。
パネルの上部は床から4m近い高さになる。2mの脚立の天板に上がったとしても、身長が160cmのももが作業するにはギリギリの高さだ。むしろ、180cm近い身長の橘の方が適任と言えるのだが。
「もういいわ。」
ももは橘を睨みつけると、カンカンと脚立を登り始めた。
ももだって高いところが得意なわけではない。脚立が揺れるたびに、目眩を起こしそうになる。それでも仕事なのだからやらなければいけない。そこのところが橘はわかっていない。
ももは脚立の天板に両足を乗せて背伸びをすると、パネルの上に手を伸ばした。よくは見えないが、外れている金具の感触はあった。
「いいよ、上げて。」
ももの合図で橘が下からパネルを持ち上げる。カシャンと音がして、固定器具に引っ掛けることに成功した。ほぅっと安堵のため息が出る。
「降りるから押さえててくれる?」
ももは、下にいる橘に声をかけると片足を天板から下ろした。ひゅうっと血の気が引いていくような感じがする。
脚立って登る時より降りる時の方が怖いんだよな…。
そんなことを考えた次の瞬間、下に降ろした足が滑った。
あっ…と思ったのも束の間、ももは脚立から滑り落ちていく自分の体を感じた。
人は死ぬ直前、様々なことが走馬灯のように頭の中をよぎるという。
私、どうなるの。2mの高さとはいえ、落ちたら無傷では済まないよね。全身の骨が折れて、打ちどころ悪ければ死んじゃったりとか?
あーあ、イケメンの彼氏と付き合いたかったな。チャペルで式も挙げたかったし。しかも今日、下着の色が上下違うんだよね。もし病院に運ばれたりしたら服、脱がされるんだろうな。かっこ悪。
ガシャンッという脚立が倒れる大きな音がしたと同時に、ももの体に強い衝撃が走った。しかし、思ったほど痛くはない。
…え?
柔らかい感触がしたので見ると、橘がももの下敷きになっていた。
「えっ…やだ。大丈夫!?」
仰向けに倒れていた橘が、ゆっくり起き上がる。
「だ、大丈夫…です。」
ズレたメガネにはひびが入っており、頬からは血が出ていた。
「も、もさんは…何ともない、ですか?」
「…大丈夫だけど。」
何で橘くんが。
「…なら、よかった。」
そう言って少し笑った橘の目がいつもと違う気がして、ゾクッとする。
突然の大きな音に、他のスタッフが大展示室に集まってきた。
橘がメガネをかけ直して立ち上がる。
ももは、その姿を見つめた。
さっきの目…橘くんの目、すぐにメガネをかけちゃったからよく確認できなかったけど。切れ長ですごく綺麗な色の目だった。
そもそもキモくてダサいくせに私の下敷きになるとか、何なのあの男。
「ちょっと、大丈夫?」
駆けつけた藤堂に体を支えられ立ち上がると、ももは少しだけ痛む腰を抑えた。
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