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「橘くん、倉嶋さん、ようこそ『モノ・アートミュージアム』へ!」
吉田館長のお決まりの音頭で、飲み会は始まった。新入社員の歓迎会という名目の、ただ酒を飲みたい人間の集まりである。
ももはグラスの生ビールを一気に飲み干した。
「っあー。やっば。」
「もも、飛ばすねぇ。」
隣に座った藤堂が笑う。そういう藤堂のグラスもすでに空になりそうだ。
「相変わらず飲みますね。」
相良が手を上げて、二人分のビールを追加注文した。
「だって、仕事の後のビールほど最高なものはないでしょ。」
ももが言うと、斜め前に座っている橘がうつむきがちにふふっと笑い、ずり落ちたメガネを直した。メガネにはヒビが入ったままだ。
…だからキモいんだって。
コンベンションセンターの27階にあるcielというバー。オシャレで落ち着いた雰囲気が人気の店だ。結婚式の二次会として利用されることも多い。大きな窓から見える景色は街全体が見渡せる絶景で、窓辺に立つと、まるで空の上にいるかのような錯覚に陥る。
そんなcielは同じビル内ということもあり、美術館のスタッフの御用達の店となっている。
「なんか長瀬さんも藤堂さんもオヤジくさいですよ、そういうの。」
目の前に座った倉嶋が、眉をひそめる。そう言う彼女の前にはかわいらしいカクテルのグラスが置かれていて、あぁさすがだなと、ももは思った。
「橘くんはどう思う?こんなふうにお酒飲む女の人、好き?」
倉嶋が橘の顔を覗き込む。橘は顔を反らした。
「…あ。き、嫌いでは…ない、です。」
「ふーん…。」
倉嶋とは同期だというのに、橘はなぜか敬語だ。
思ったような返事ではなかったのか、倉嶋はつまらなそうな顔でオレンジ色のカクテルに口をつけた。
「橘くんはお酒飲まないの?」
ちびちびとウーロン茶をのむ橘に、相良が話しかける。
「…は、はい。すみません…。」
「別に、謝らなくても。いや実は僕もね、全然飲めなかったんだけど。この二人に付き合わされ続けてさぁ、今ではこんな。」
そう言って、相良は自分の前にあるハイボールのグラスを指さした。
「いやいや、おごってもらえるからって喜んでついてきてたの、相良くんでしょ。」
藤堂がじろりと睨む。
「そうそう。高いお酒ばっかり頼んでさー。」
「えー。二人ともひどいなぁ。散々、愚痴を聞いてあげたんですから、それくらいいいじゃないですかぁ。」
相良が子どものように頬を膨らませた。それを見ていた橘が、どぅふっと笑う。
…うーん。やっぱりキモい。
その時ももの後ろから手が伸びてきて、テーブルにグラスビールが置かれた。
「楽しそうだね。」
聞き覚えのある声とふわっと漂ったシトラス系の香りに、ももは体を固くした。
「おーっ。青山くん!今日はありがとうね。」
離れた席から、吉田館長が大声を出す。
「いえいえ、こちらこそ。いつも皆さんにはお世話になって。」
青山くん、と呼ばれた黒髪センター分けのその男は、ニコッと笑った。
青山翔太。30歳。このバーの店長である。長身で、なかなかのイケメン。青山目当てにこの店に足を運ぶ女性客も多い。
…そして青山は、半年前まで付き合っていたももの元彼だ。
「朱里ちゃんも相良くんも久しぶりだね。最近来てくれないから。」
「あー…すみません。なんか仕事忙しくて。」
藤堂の言葉に、相良がうんうんと必死に頷いた。
「また来てよ。待ってる。」
青山はそう言うとテーブルから手を離し、そのままももの鎖骨から肩にかけてのラインを、すっと指でなぞった。
ももの体がビクッと震える。
傍から見ればそれは一瞬のことで、偶然手が当たったというふうに見えなくもなかった。しかしそれは偶然などではなくて。
なぜなら、ももにとって鎖骨を触られるという行為は、特別な意味を持つ行為だったから。
「…もも、大丈夫?」
藤堂が体を寄せて、小声で話しかけてきた。
「うん…。」
ももは小さく頷いて、先ほど青山が触れた自分の鎖骨に手を当てた。
今日、広めVネックのカットソーを着て来たのには意味があり、そこに青山は気づいたのかもしれないと思った。
付き合っている頃、青山はいつも、ももの鎖骨が綺麗だと褒めてくれていた。何度もそこに触れて、何度もキスをくれた。その感触を思い出すだけで、体が反応しそうになる。
だから…。
今日の服装は、青山のためだ。青山に、もう一度自分を見てほしくて。でもそんなことは無理だともわかっていて。
あんなに辛い思いをしたというのに、少しの期待を抱いている自分が嫌になる。そうは思うのだが。
「また来てよ。待ってる。」
さっきの翔太の言葉。
あれは朱里と相良くんに向けた言葉?それとも…。
ももは、二杯目のビールも一気に煽った。
「長瀬さん、今の人誰ですか!?」
倉嶋が、ものすごい勢いでテーブルに身を乗り出した。
「めっちゃかっこいいー。」
そう言って青山の後ろ姿を眺める。
「この店の店長さんだよ。青山さん。」
ビールグラスを睨みつけているももの代わりに、藤堂が横から口を出した。
「彼女とかいるんですかね?紹介してくださいよぉ。」
倉嶋が体をくねくねと揺らす。
「はいはい、今度ね。」
そんな倉嶋の横で、橘が前髪の奥のヒビが入ったメガネの奥から、ももをじっと見つめていた。
当然ももがその視線に気づくことはなく、藤堂と相良が止めるのも聞かずにひたすらビールを飲み続けた結果…。
記憶のない夜を過ごすことになる。
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