元彼の存在

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元彼の存在

わかんない。 ぜんっぜんわかんない。理解不能。 あのダサくて暗くてキモい橘くんが、実はあんなキラキラ男子だった?そんなおとぎ話みたいなことってある? はぁっと苛立ちのこもったため息をつきながら、ももはコンベンションセンターの入り口を入った。エレベーターホールを目指す。 あの後、車で家まで送ってもらい、シャワーをして着替えた。車を降りる時にあの男は、「じゃあまた後で」と言って帰って行き、ももはしばらく自宅マンションの前で呆然とした。 もしかしたらあの男は私の知ってる橘くんじゃないのかも。ほら、弟とかお兄さんとか…。 そこまで考えて、やっぱり違うかと頭を振った。頬に傷もあったし。 そもそも問題なのは、橘くんが実はキラキラ男子かもしれないってことじゃなくて、酔っ払って記憶なくして彼氏でもないよくわかんない男とセックスしたってこと。 ももはエレベーターのボタンを連打した。扉の上の階数表示が下がってくる。 橘はもう出勤しているだろうか。どういう顔で会えばいいのだろう。それにしてもあんな橘を見たら、職場の皆は大騒ぎになるに違いない。そして間違いなく、倉嶋の餌食になる。 「あぁ…どうしよう。」 つい、声が出る。 ポーンと音がしてエレベーターの扉が開いた。ももが顔を上げると、そこには人が乗っていて…青山だった。 「あれ。」 青山はニコニコしながら、エレベーターから出てくる。ももの顔が引きつった。 「これから出勤?」 「あ…うん。」 「そっか。俺は車に忘れ物。」 そう言って、外を指さす。 「そう。」 ももはエレベーターの方に足を踏み出したが、青山がそれを遮る。 「昨日はありがとうね。久しぶりで嬉しかった。」 「あ…うん。こちらこそ。」 顔を見ずに言った。 「だいぶ飲んでたけど、大丈夫だった?」 「う、ん。何とか。」 大丈夫ではなかったけど。 すると青山が、ももの耳に顔を寄せた。ふわっとシトラスの香りがする。 「昨日のもも、すごく綺麗だった。」 耳元で囁く青山の息が耳にかかって、心臓がドクンと鳴った。 「また店においでよ。できれば一人でさ。」 ももは、一点を見つめたまま動けなかった。「じゃあ」という青山の声が聞こえたが、自分の心臓の音が邪魔をする。気がつくとエレベーターの扉が閉まりそうになっていて、慌てて中に乗り込んだ。 まだ心臓が速い。 昨日やはり青山は、ももがあえてあの服を選んだことに気づいていたに違いない。鎖骨に触れたことも偶然ではない。 「また店においでよ」とは? しかも「一人で」とは? 本当にただ飲みに来いと言っているのか。それとも…。 12階でエレベーターを降りると受付にいるスタッフに挨拶をして、ももは事務所へと入って行った。橘の変貌ぶりにさぞかし騒がしいことだろうと思っていたのに、意外と事務所内は落ち着いていた。 「おはようございます。」 ももが声を掛けると、数人のスタッフがおはよう、と返してくる。いつも通りの風景。 …あれ? 橘はどこかと思い見渡すと、ももの隣のデスクにいつもと変わらない橘がいた。しわしわのスーツにボサボサで寝癖だらけの髪。さすがにメガネは新しい物をかけているようだが、椅子に座っているその姿は猫背すぎて、まるでおじいちゃん。 …これは夢? いや、今朝のが夢? 男に飢えすぎた私は、いよいよ幻覚が見えるようになってしまったのだろうか。 「あ…も、ももさん。お、おはよう、ございます…。」 ももに気づいた橘が顔を上げてニヤリと笑った。しかしメガネの奥の目は、やはり死んでいる。 これはいつものキモい橘くん。 なんで?あのキラキラした橘くんはどこへ行ったの? やっぱり今朝のあの男は、別人? 「もも。ももってば。」 藤堂の声で我に返る。 「何、橘くんのこと見つめちゃってんの。」 「あぁ、ごめん。」 ももは自分のデスクに座り、パソコンを立ち上げた。隣の橘を見ると、人差し指をENTERに置いたまま、パソコンの画面を見つめている。 …何してんの。こわ。 「昨日もものこと橘くんにお願いしちゃったんだけど、無事帰れた?」 「あ…うん。無事に。」 家に帰ったのは今朝ですが。 「あんなに飲むなんてさ、やっぱ青山さんが原因?」 藤堂が向かいの席から声をひそめる。 「まぁカッコよかったよね。気持ちが騒ぐのもわかる。」 そう言って、うんうんと頷く。 「さっき、下で会ったよ。翔太に。」 「え。」 「また店に来いって言われた。」 藤堂が、身を乗り出した。 「え、行かないよね?」 「当たり前でしょ。行けるわけない。」 ももはパソコンの画面を見ながら言った。平然を装う。 「…そうだよね。」 椅子に座り直し、藤堂は安心したような顔をした。それでも何か言いたそうだったが、ももが黙ってしまったのでそのまま自分の作業に戻っていく。 …行けるわけない。半年前、あんな思いをしたんだから。 もう惑わされないって決めたんだから。 ももは、下唇をきゅっと噛んだ。
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