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『モノ・アートミュージアム』では、今年度の展示内容はすでに決まっている。
現在開催されているのが国内外の写真家たちの作品展。6月からは有名イラストレーターの原画展。夏に県の美術展を挟んで、秋には中世ヨーロッパの絵画展。そして11月の下旬からは、大人気アニメにまつわる展示というような流れだ。
週に一度、会議室で行われるスタッフミーティングでは、展示内容の企画や改善点などについて話し合いが行われる。今日の議題は、11月下旬からのアニメ展について。
今世間で大人気の『バタフライ戦記』というアニメ。歴史や哲学的な要素も含まれるとあって、子どもから大人にまで人気がある。その展示に使う作者のインタビューをどうするか、というところが論点だ。
「『バタフライ戦記』では、実際に存在する場所や建物が登場しているだろう?どんなインスピレーションを受けて、どのように作品に反映させたのか、話を聞いてみたいと思うんだ。」
吉田館長が話し始めると、スタッフたちが頷く。
「確かに。そこを熊倉悠本人の声で聞けるというのは、ファンにとってはたまらないでしょうね。」
「自分の住んでいる地域ならなおさらね。」
熊倉悠というのは『バタフライ戦記』の作者の名前である。あまりメディアに顔出しをしていないので、このインタビューの映像はかなり話題になると思われた。
「K県にある、熊倉悠の事務所に話は通ってる。再来週あたりで時間をもらえそうなんだが…。」
吉田館長がパソコンの画面を操作し始めた。スタッフの勤務を確認しようとしているのだろう。
「私、行けます。」
ももはすかさず、手を上げた。
「再来週は倉庫の整理と前の展示物のチェックの予定でしたが、来週中に終わらせますので。」
少しばかり業務がタイトになるが、前から気になっていたK県の県立美術館に行けるチャンスだ。
すると倉嶋も、はいっと手を上げた。
「私も行きたいでーす!熊倉悠って、めちゃくちゃイケおじって話ですよね。会いたいですー。」
目をキラキラさせながら言うが、藤堂に即却下された。
「倉嶋さんはダメ。まだまだ覚えなきゃいけない業務がいっぱいあるでしょ。」
ふくれっ面になった倉嶋を隣の相良がなだめる。あはは、と皆の間に笑いが起こっている中、テーブルの端に座っていた橘がおもむろに手を上げた。
「あ…あの、ぼ、僕も行きたい…です。」
一気に、会議室が静かになる。皆の注目が橘に集まった。
「ぼ…僕、ば、バタ戦の…だ、大ファンで。」
…ばたせん?
あぁ、バタ戦。『バタフライ戦記』の略ね。
ももは、眉をひそめて橘を見た。ずり落ちたメガネを直しながら、興奮しているのか息が荒くなってきている。
「こ、これ…僕の、バタ戦の推しキャラ…なんですけど。」
そう言って橘が見せたのは、自分のバッグについている人形のキーホルダー。
「ば、バタフライ戦記って…ぶ、文明が滅びた後、の日本が舞台で…。そ、そこに生まれたう、運命の子、が…く、国を一つにするために…た、戦うんですけど。ゆ、友情…とか愛情とか。け、権力とか、いろいろ合わさってて…す、すごく壮大な…。」
そこまで話すと、橘はゲホゲホと咳き込んだ。それでも何かを伝えようと途切れ途切れに言葉を発しているが、何を言っているのかさっぱり聞き取れない。
会議室の中が、何ともいえない空気に包まれる。
「…すごいね。橘くんがこんなに喋るなんて、本当に好きなんだね。」
ねぇ?と、相良が隣の倉嶋に同意を求める。
「う、うん。すごい…。」
倉嶋の顔が、わかりやすく引きつっている。
「よしっ。」
と、吉田館長がパンッと手を叩いた。
「じゃあ、そういうことなら橘くんも一緒に行ってもらおうか。」
「…えっ。」
ももは、思わず中腰になった。
ちょっと待って。橘くんと一緒に出張?
「あのっ、館長。私一人でも…。」
「長瀬さんは彼の教育係だし、ちょうどいいね。」
吉田館長のこの一言で再来週の二人での出張が決まり、勤務表にもしっかり入力されてしまった。
呆然とするももとは反対に、橘はキーホルダーの人形を愛おしそうに撫でながら、ニヤニヤしている。
あぁ、どうしよう。こういう感じ、本当に受けつけないんだけど。
目の前で人形を愛でているこの男が、今朝のキラキラ男子と同一人物とは思えない。
やっぱり幻覚だったのかな…疲れてるな、私。
ももは、指で目頭を強く押した。
「ああいうのを、オタクっていうんだね。いかにもな人、初めて見た。」
事務所の奥にある休憩スペースのカウンターに寄りかかりながら、ももと藤堂と倉嶋はコーヒーを飲んでいた。
「私の友達にもアニメ好きな子いますけど、見た目はいたって普通ですよ。」
倉嶋が、スマホを弄りながら言う。
「そうだよねー。あれは、なかなかのレベルだね。」
藤堂の言葉に三人は、自分のデスクでキャラクターの人形を撫で続けている橘を眺めた。
「…でも意外とああいう感じの男、夜はヤバかったりして。」
藤堂がニヤッと笑う。
ももは、コーヒーの入った紙コップを落としそうになった。
「朱里…。夜って何。」
藤堂を睨む。
「いや、だから。めっちゃ性欲強いとか、すっごいテクニック持ってるとか?」
「えー。それなら私、付き合ってもいいかも。」
倉嶋が体をくねらせた。
「え、本当?」
「だって服とか見た目は、こっちがいくらでも直してあげられますよね。橘さん身長高いし、髪切ってコンタクトにしてオシャレな服着たら、意外とイケてたりして。」
ふふっと笑う。
ももは、何も言えなかった。何も言えずに、ただおじいちゃんのように丸まって座っている橘を見ていた。
倉嶋さん…あなたってやっぱりすごいかも。
その時、カウンターに置いたもものスマホが鳴った。何気なく見ると『翔太』の二文字。LINEのメッセージだった。
慌ててスマホを手に取るが、藤堂と倉嶋は話の続きに盛り上がっていて、気づく様子もない。
コーヒーを一口飲み、画面をタップした。
『今夜店に来る?』
メッセージは、それだけ。
ももの指が震える。心臓が速くなっていくのがわかる。スマホの画面の上で、指だけが右往左往している。
「もも、受付交代しに行こ。」
藤堂に話しかけられ、我に返った。
「あ、うん。」
ももはスマホの画面を消すと、飲み終えた紙コップを思い切り潰した。
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