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周りの人の目を気にするかのように、熊倉が声のトーンを落とした。
何か言いにくいことなのだろうかと思い、ももはまた隣に腰を下ろした。正面を見たまま、体を少し熊倉の方へと傾ける。
「9月の終わり頃だったと思うんですが…嶋宗清一郎先生の事務所の方から連絡が来まして。」
「…えっ…。」
想像もしていなかった内容に、ももは思わず熊倉の顔を見た。
熊倉はももの目を見て一度頷くと、床に視線を落とした。膝の上で両手を組んで、一点を見つめたまま話を続ける。
「それで…ウチにある『Rの肖像』を譲ってほしいと言われました。」
「…え?」
「あの作品をずっと探していたとかで…。でもどういう経緯で、ウチにあるってわかったんでしょうかね。」
「…。」
『Rの肖像』が熊倉宅にあることを知っているのは、自分と橘以外にも、熊倉の友人や事務所の人たちなど複数人いる。そこから話が漏れたと考えることもできるが、それは少し違うような気がした。
これはきっと、橘が関係している。
そう思った。
「おかしくないですか?もともとあの絵は嶋宗先生が所有していたと聞いています。何年も前に手放したというのに、今になって譲って欲しいだなんて。」
「…そうですね。」
ももは、ゆっくり頷いた。
「お金はいくらでも払うと言われました。でも、僕もあの作品は友人から譲り受けたもので、購入したわけではないんですよね。」
「それで…先生は何と返事を?」
「今のところ、手放すことは考えていないと言いました。市花もすごく気に入っている絵ですし、お金とか、そういう問題ではないというか…。」
ももは、市花と初めて会った時のことを思い出した。最初、市花は『Rの肖像』を見せたがらなかった。utaが公表したくなかった作品だからと、その気持を尊重しようとしていた。
市花にとっても、あの絵は特別なものなのだろう。
「来年、嶋宗先生の個展をやるそうですね。さっき吉田館長から聞きました。」
「あ…はい。来年の夏に。」
ももがそう答えると、熊倉が体をこちらに向けた。
「では長瀬さんは、嶋宗先生の事務所の方とも交流がありますか?僕に連絡をしてきたのは、神崎さんという女性の方なんですが…。」
神崎、という名前が出た瞬間、全身の血の気が引いていくような感覚に陥った。知っていると言って良いものかと迷いながらも、嘘をつく必要もないかと思い直す。
「…神崎さん…。はい、知ってます。」
これは…。
この状況は、橘が神崎に『Rの肖像』を買い戻すように頼んだということなのだろうか。
自分の知らないところで、橘は一体何をしようとしているのだろう。
マンションに帰り玄関のドアを閉めると、ももは大きなため息をつきながらパンプスを脱いだ。
今日は疲れた。
いや、熊倉との打ち合わせはとても有意義なものだったし、市花と久しぶりに会えたことも嬉しかった。
しかし熊倉の言っていた『Rの肖像』の件が頭から離れず、かといって、橘に直接聞くわけにもいかず。
モヤモヤしたまま帰宅した。
リビングの電気を点けると、真っ先に目に飛び込んでくるのは、橘からもらったあの絵。何度見ても慣れない。しかも描かれている女性と自分とは、やはり似ても似つかないと思っている。
これは橘が描いた絵。
しかし、utaの絵だ。
橘がuta。
utaが橘。
あの日以来、何度もこの絵を見ながら頭の中で繰り返している。それでも全く整理がつかない。納得ができない。
答えが出ないループの中で、もはや自分がどうしたら良いのかわからない。
橘のことが好きなのかもわからなくなっている。
いや、橘ではなくて…utaだ。
「はー…ダメだぁ。」
大きく息を吐いて、ももは絵の前に座り込んだ。
絵の右下に小さく書かれたutaのサインを、指でなぞる。
あんなに憧れていたutaの絵だというのに…。
自分はどうしてしまったのだろう。
客観的な意見が必要だ。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
確かめなければ。
私には、全部を知る権利がある。
そうでしょう?
ももはバッグからスマホを取り出すと、電話帳を開いた。「か行」までスクロールする。
自分が個人的に連絡を取ることはないと思っていたが、今となっては連絡先を交換しておいて良かったということになる。
神崎。
あの人に聞くのが、一番手っ取り早い解決方法だと思えた。
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