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S市までは、電車で約40分。
嶋宗の家があった地域とは違い、駅の周りには高層ビルやマンションが立ち並び、人通りも多く賑わっていた。
神崎から指定されたカフェは、駅の南口を出るとすぐに見つかった。店に入ると昼時ということもあり、そこそこ混んでいる。
個性的な髪型の可愛らしい店員に案内されて窓側のテーブル席に座り、ホットコーヒーだけを頼んだ。
今日は、気持ちの良い秋晴れ。風は冷たいが、太陽の光は暖かい。
こんな日に電車に揺られて、馴染みのない土地に来るのも悪くない。
そんなことを考えながら、ももは窓の外を眺めた。
昨夜、神崎に連絡をした。
神崎は、海外に行っている嶋宗夫婦宅の掃除を終えて帰るところだったようで、突然のももからの電話に驚いた声を出していた。しかし橘とutaについて聞きたいことがあると言うと、すぐに何かを察したようだった。
最初、神崎がももの住む街に来ると言ってくれたのだが、二人で会っているところを万が一にも橘に見られては困ると思った。したがって、月曜日で仕事が休みであるももが、S市まで足を運んだのだ。
神崎が来たら、何から話したら良いだろう。
橘くんは本当にutaなんですか?
何で今まで教えてくれなかったんでしょうか?
橘くんの過去に、何があったんですか?
それと…
私は橘くんとつきあっていてもいいんでしょうか?
小さい頃から橘の面倒をみてきたという神崎だから、きっと彼のこれまでを全て知っているに違いないのだ。
しかし果たして、自分の疑問に答えてもらえるのか…。
そんなことを考えていると、コーヒーが運ばれてきた。一口すすると、少しだけ緊張が和らいだ。
その時、「いらっしゃいませ」と、先ほどの店員の元気な声が店内に響いた。顔を上げると、こちらに向かって歩いてくる神崎の姿。二ヶ月前に会った時よりも少し髪が伸びていたが、相変わらず綺麗な人だと、そんなことを思う。
「お待たせしてすみません。」
と、神崎は向かい側の席に座った。
「いえ、お忙しいのにありがとうございます。」
ももは深々と頭を下げた。
「長瀬さん、お昼食べました?ここのランチプレート、ボリュームもあって美味しいんですよ。」
早速メニューを手に取った神崎は、ペラペラとページをめくりながら、「どれにしよう…」と真剣に悩み始めた。
おそらく、自分よりも10歳以上も年上の女性のそんな無邪気な姿に、思わず笑みがこぼれる。この様子からすると、少なくとも迷惑がられてはいないと思えて安心した。
「私はあまりお腹が空いていないので…。」
ももが言うと、神崎は、そぉ?と一瞥してから店員に向って手を上げた。
「すみません、チキンのグリルとピラフのランチプレートを一つ。」
はーい、と店員が応えたのを確認すると、神崎は満足そうに前を向いて水を一口飲んだ。
「…で。亮くんのこと、でしたっけ?」
そう言ってももを見る神埼は、急に真顔になった。テーブルの上に腕を組み、もものことを真正面から見据える。
「…はい。」
コーヒーをもう一口飲んで、ももは背筋を伸ばした。
あれだけずっと聞きたいことを考えてきたというのに、いざその時となったら頭の中が真っ白だ。
「えっと…。」
必死に言葉を探すももを、神崎はじっと見つめる。何を言いたいのか、あらかた予想はついているだろうに、何も言ってくれない。
まわりくどいことは必要ないのかもしれなかった。
「あの…。」
「はい。」
「橘くんがutaだって、本当ですか。」
数秒間、二人の間に沈黙が流れた。
神崎は表情ひとつ変えずに、もものことを見つめ続けている。ももは、目をそらしたくなるのを我慢した。
ここで目をそらしたら、神崎は話をうやむやに終わらせてしまう気がしたからだ。
そしてしばらくして、神崎が口を開いた。
「…それを誰から。」
「橘くんです。」
ももは、即答した。
「私の誕生日に絵をプレゼントしてくれて。その時に、話してくれました。」
わかりやすく、神崎の顔が綻んでいく。
「絵を?亮くんが?」
「はい。私をモデルにした絵らしいんですけど…全然似ていないんです。」
ふふっとももが笑うと、神崎もつられて笑顔になった。
「そう…。もう絵は描かないのかと思ってたのに。」
…もう、絵は描かない?
utaが活動を停止したのは、約5年前のこと。その頃に橘は、もう絵を描かないと決めたということだろうか。
しかしその後に、『Rの肖像』を完成させているのだ。そして、ももの誕生日にも絵をプレゼントしてくれた。
…何か心境の変化が?
「何か、心境の変化でもあったのかしら。」
神崎は不思議そうに、しかし嬉しそうに呟いた。
「あの…教えていただけますか?橘くんのこと。」
「その前に。何で長瀬さんは、亮くんのことを知りたいの?」
おそらくこの人は、全部気づいている。
わかっていて、あえて私の気持ちを確認しようとしているんだ。
ももは、ぬるくなりかけたコーヒーに口をつけた。ごくんと飲み込む音が、やたら大きく聞こえた。
「…私と橘くんは、つきあってるんです。でも今、橘くんのことがよくわからなくなってしまって。好きなのかどうかも…その、自信が持てないというか…。」
「だから知りたい?」
「はい。」
真っ直ぐに、神崎のことを見つめる。
すると神崎は、納得したかのように一度頷いた。そして水を一口飲むと、ゆっくりと話し始めた。
「長くなるけど」と、前置きをして。
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