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午後6時の閉館時間を過ぎ、片付けや事務処理を終えたのが午後7時。次々と他のスタッフが帰って行く中、ももは自分のデスクに座り、翔太からのメッセージを見返していた。
『今夜店に来る?』
まだ返事はしていない。
行かない、と返せばいいことはわかっている。しかし、その4文字を送ることがためらわれる。
軽く見られているのだと思う。別れた女にこのようなメッセージを送ってくる男など、ろくな男ではない。わかってはいるのに、心の隅でかすかな期待を抱いている自分がいる。
本当にバカみたい。
ももは天井を仰いだ。
「…も、ももさん。ほ、ホテル、取れました。」
橘が、隣の席から話しかけてきた。
橘には再来週の出張の際に泊まるビジネスホテルの予約をお願いしていたのだが…。
どんだけ時間かかってんのよ。
確か、橘にホテルの予約をお願いしたのは一時間くらい前。
「うん…ありがとう。」
もはや怒る気にもなれない。今はそれどころではないのだ。
館内の見回りに出ていた藤堂が戻って来たので、三人は事務所を出た。タイミング良く下りてきたエレベーターに乗り込む。
エレベーターの中には上階のオフィスで働いているらしき人や、ホテルの宿泊客らしき人たちが数人いた。ももは壁側に体を寄せると、バッグの中からスマホを取り出した。LINEの画面を開く。
…どうしよう。今日このまま帰ったら、もう翔太から連絡は来ないかもしれない。でも、ちょっと誘われたくらいでホイホイと顔を出すなんて。やっぱりよくない…かな。
「もも、ご飯でも行く?」
「んー…。行かない。」
藤堂の誘いに、ももは上の空で答えた。
「も、ももさん…。ば、バタ戦のDVD、あるんですが…み、観ますか?」
「うーん…そうだね。」
橘の言葉も頭に入ってこない。スマホの画面をじっと見つめる。
『今夜店に来る?』
青山の言葉はまるで魔法の呪文だ。一瞬にして、あの辛かった時期が嘘のようにかすんでいく。
あーあ。結局私って、男運ないんだよなぁ。
1階に着いたエレベーターのドアが開き、次々に人が降りていく。しかしももは、壁に寄りかかったまま動かなかった。
「…もも?」
先に降りた藤堂と橘が振り返り、不思議そうな顔をする。
「私…忘れ物したみたい。先に帰って。」
そう言うと、ももは『閉』ボタンを押した。
「えっ…。」
閉まっていくドアの隙間から慌てた様子の藤堂の顔が見えたが、何となく目が合うのが怖くて顔を背けた。そのまま27階のボタンを押して深呼吸をする。
…だって、しょうがないじゃない。
ももは、自分自身によくわからない言い訳をして、少しずつ上がっていくドアの上の階数表示を見つめた。
一方の、1階に取り残された藤堂もエレベーターの階数表示を見つめていた。その表示が12階を過ぎた途端、大きくため息をついた。
「あー…やっぱりね。」
「…な、何ですか。」
橘が尋ねると、藤堂が何とも気まずそうな顔をする。
「もも、青山さんの店に行ったんだと思う。」
「あ、青山さん…?」
「昨日のバーの…。」
「…あ。」
橘も、どうにか理解したようだった。
「やめろって言ってんのに。」
藤堂が頭を振った。
「もも、半年前まで青山さんと付き合ってたんだけど…ひどい別れ方してるの。それなのに、ね。」
はぁっと、また深いため息をつく。
「青山さん、ももに店に来いって誘ったみたいなんだよね。どういうつもりだと思う?」
急に話を振られた橘が、「え…え…」とうろたえる。その様子を見て、藤堂が肩をすくめた。
「ごめん。橘くんに言うことじゃなかったよね。」
「…い、いえ。」
帰ろっか、と藤堂が外を指さした。橘は小さく頷いて、藤堂の後について行く。メガネの奥の目が冷たく光ったが、藤堂がそれに気づくはずもなく。
二人はコンベンションセンターの前で別れた。
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