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「あの日…卒業式の日の夜は、皆でお祝いをする予定でした。嶋宗先生と奥様、亮くんのお父様とお母様、そして私も夕飯に招待されていたんです。
それなのに昼間、亮くんが救急車で病院に運ばれたという連絡を受けまして…急いで駆けつけた時には、緊急手術の真っ最中でした。
一緒に付き添って来てくれていた担任の先生の話によると、卒業式が終わった後に廊下を歩いていた亮くんの後ろから、女の子がナイフで切りつけたとか。その子は同じ3年生で、でもクラスは違っていて…ずっと亮くんにストーカーまがいの行為をしていた子でした。その子はその後、屋上から飛び降りたそうで…亡くなりました。
本当に驚きました。
亮くんの傷はけっこう深くて、跡は一生残るだろうと言われました。傷が治った後も精神的な面でケアが必要で、結局、一年くらい入院生活が続いたと記憶しています。
明らかに…悪いのはその女の子だと思うんですが、亮くんに対するバッシングがしばらく続きました。テレビのニュースやネットなんかでも。
女の子が亡くなったのは亮くんのせい。学校の評判が落ちたのも亮くんのせい。
亮くんのイケメンぶりは他の学校の生徒の間でも話題だったそうで、この事件に関しては歪んだ視点で報道されることも多かったです。どうせ自分の外見に自惚れて、周りの女の子たちをたぶらかしていたんだろうって…自業自得だ、なんて、そう言われて…。
悲しかったです。
あんなに明るかった亮くんが、ひどく塞ぎ込んでしまいました。もう誰も信じられないとも言っていました。
そして亮くんは、絵を描くことをやめてしまったんです。utaとしての活動も、もう辞めると。顔出しをして、あの事件の高校生だと騒がれるのを怖がっていました。
それなら顔出しはせずに活動を続けてはどうかと提案もしましたが、あの時の亮くんにはもう芸術に対する情熱も気力も何もかも、なくなってしまっていたんだと思います。
だから、私たちは待つことにしました。亮くんがまた描きたくなるまで、何年でも待つつもりでした。
でも嶋宗先生は、それを許さなかった。
実はutaの顔出しのタイミングに合わせて、嶋宗先生とのコラボ作品展を予定していたんです。その準備は、もう中止なんてできないくらいにまで進んでいて…先生は、各方面への影響も考えて必死に亮くんを説得していました。でも、亮くんにはそんなこと関係なかったんですよね。
コラボ作品展の開催についての発表は、嶋宗先生とutaが、映像で全世界に配信することになっていました。それなのにutaはその場に現れず、活動を停止するというコメントだけが勝手に配信されてしまった。
嶋宗先生は、ひどくご立腹でした。…当然ですよね。
それからです。
先生と亮くんは、事あるごとにぶつかるようになりました。和気あいあいとしていた家の中が、冷たくギスギスし始めました。言い争いや喧嘩ばかりで、ついに耐えられなくなった亮くんのお母様が、亮くんと一緒に嶋宗家を出ました。
離婚までする必要はなかったのではないかと思いましたが…お母様はお母様で、嶋宗先生や亮くんのお父様に対して思うところがあったみたいですね。
亮くんにしても、嶋宗を名乗ることが嫌だったのかもしれません。
その後お二人がどこでどうしているのか、果たして一緒に暮らしているのかも、私たちには分からずじまいでした。その気になればあらゆる手を使って調べることはできたのでしょうが…しませんでした。
嶋宗先生は亮くんのことを許すつもりはないようでしたし、私たちもきっと、どこか怖かったのかもしれません。亮くんはもう、私たちが知っている亮くんではなくなってしまった気がして。
それ以来…もう五年くらいでしょうか。亮くんには会っていませんでした。だからSNSで、亮くんがモノ・アートミュージアムで働いていることを知った時は、とても驚いてしまって。
館長の吉田さんからは、何度も個展のご相談をいただいていたものですから。
…これは運命かもしれないと思いました。」
神崎は水を一口飲むと、ふふっと笑った。その時のことを思い出しているのか、とても嬉しそうな顔をする。
「嶋宗先生には、神崎さんから話したんですか?」
ももが尋ねると、神崎は頷いた。
「はい、すぐに。以前の確執のことなんて忘れてしまうくらい嬉しかったので。すると嶋宗先生が、モノ・アートミュージアムで個展ができないかと仰ったんです。もう、私…涙が出そうでした。先生もきっとずっと、亮くんのことを気にかけていたに違いなかったんです。
私たちはすぐに予定の調整にかかりました。無理やりでもいいから、一ヶ月でもいいから、亮くんのいる美術館で先生の個展を開きたいと思って。
…それで、前のような二人の関係に戻ってくれたらと思ったんですけど…なかなかうまくはいかないものですね。」
そうだ。
以前、個展の話し合いのために嶋宗宅へ行った際、橘は美術館の職員という立場を崩そうとしなかった。
嶋宗清一郎は橘に歩み寄ろうとしているが、橘の方がそれを望んでいないということか。
「私がお話できるのはこれくらいかと…。どうですか?亮くんのこと、少しわかってもらえました?」
「…はい。」
でも。
「あの、もう一つ聞きたいことがあるんですけど。」
ももの言葉に、神崎が片眉を上げた。
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