橘とuta

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「…『Rの肖像』のことを、聞いてもいいですか?」 「え…。」 神崎は驚いたように目を丸くしたが、すぐに思いついたように「あぁ」と声を漏らした。 「もしかして…熊倉悠先生から、ですか?」 「はい。私も熊倉先生の企画展の担当なので…橘くんと一緒に、何度かお宅にお邪魔したことがあります。その時に、『Rの肖像』を見ました。その…噂でしか聞いたことがなかった作品だったので、実在していたなんて驚きでしたけど。」 小さく頷いた神崎は、何を見るでもなく窓の方に顔を向けた。 「あれは、退院した亮くんが自分をモデルに描いたものです。…と言っても、私たちがあの絵の存在を知ったのは、亮くんたちが嶋宗家を出て行く日だったんですが。 あの絵を処分してくれと言われました。見せるために描いたものじゃないから、と。その後、一旦は処分しようと思ったのですか…できなかったんです。あれは亮くんが絶望の中でも必死に自分と向き合って描いた絵だと思ったので…。 私は嶋宗先生と相談をして、昔にお世話になったことのある他県の知り合いにその絵を預けました。絶対に公表しないようにとお願いをして。 それが巡り巡って、熊倉先生の元に渡っていたんですね。」 ももは、鼻筋の通った神崎の横顔を見つめた。 頭の中で、点と点が繋がり始めている。 「あの絵を買い戻そうとしているのは、橘くんから頼まれたからですか?」 ももが尋ねると、神崎は気まずそうな笑みを浮かべてももの方を見た。 「それも、熊倉先生が?」 「はい。あ、でも熊倉先生はただ、何で嶋宗先生の事務所の方がそんなことを言ってくるのかと不思議に思っているだけです。橘くんが神崎さんに依頼したのではないかというのは、私の勝手な想像です。」 すると、神崎がふふっと笑った。 「やっぱり、長瀬さんは…。」 独り言のようにそう言って、グラスの水に口をつける。 「熊倉先生のお宅に『Rの肖像』があることは、ついこの間、亮くんから聞きました。そして…長瀬さんの言う通りです。あの絵を買い戻してほしいと頼まれたんです。」 「それは、何でですか?」 神崎は首を傾げた。 「さぁ…はっきりした理由は教えてくれなくて。」 以前橘は、自分への戒めのためにあの絵を描いたと言っていた。そして、とても後悔したと。 一体何に後悔したというのか。 あの絵を買い戻して、橘は何をしようとしているのだろう。 その時、香ばしい匂いを漂わせながら、神崎が注文したランチプレートが運ばれてきた。こんがりきつね色のチキンのグリル焼きとサラダ、そしてぷりぷりとした大きなエビが上に乗ったピラフ。 なるほど。神崎の言う通り、見ただけで間違いなく美味しいとわかる。 「食べても?」 そう言いながらも、すでに神崎はナイフでチキンを切り分けている。 「あ、はい。どうぞ。」 ももは、すっかり冷めてしまったコーヒーをすすった。 橘の過去がわかった。 橘は本当に、utaだった。 あの、未だに世界中のファンを魅了し続けている、utaだった。 改めてその事実を突き付けられ、ももは鳥肌が立った。 「…でも、安心しました。」 あっという間にチキンをたいらげた神崎が、水のグラスに手を伸ばした。 「亮くんに、大切な人ができたみたいで。」 そう言って、ももに微笑みかける。 「…え?」 「亮くん、今まで誰かのために絵を描いたことなんてなかったので。長瀬さんのことを特別に思っているんだと思います。」 「…。」 何も言えなかった。 橘が自分のことを大切に思ってくれていることは、十分にわかっている。だからこそ、自身がutaであることを告白してくれた。 それなのに、それを受け入れられずにいるのは自分の方。 「さっき長瀬さん、utaである亮くんのことが好きなのか自信が持てないと言いましたよね。」 「…はい。」 「確かに亮くんはutaですけど…いや、utaでしたけど。それはある意味、私たちが作り上げたもので。長瀬さんが好きになってくれた亮くんは、モノ・アートミュージアムで働く25歳の普通の男の子ですよね。そこに何も嘘はないし、疑問に思うこともないと思います。」 ももは、手に持ったカップの中で揺れるコーヒーに視線を落とした。 「…そうでしょうか。」 「そうですよ。」 神崎が即答する。 「…そう、ですかね。」 ためらいがちに呟くももを横目に、神崎は自分のバッグからハガキらしきものを取り出すと、テーブルの上に置いた。 「あの。今度は、私が長瀬さんにお願いしたいことがあります。」 そう言って、神崎は急に真面目な顔になった。
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