橘とuta

8/9
前へ
/110ページ
次へ
翌日、ももと橘は会議室で『バタフライ戦記展』の修正点を話し合っていた。テーブルの上にはお互いのノートパソコンや展示スペースのレイアウト図、さらにはポスターの原画や資料が雑然と置かれている。 「熊倉先生が実際に展示ホールを見てみたら、思いのほか天井が高くて驚いたみたい。だからこの大きい作品は、もっと上から吊るしたほうが迫力が出るんじゃないかって。それで、これとこれは場所を入れ替えて…。」 ももはパソコンの画面を橘に見せながら、レイアウト図の上に指をすべらせた。 すると橘もイスから立ち上がり、それを覗き込む。 「ていうことは、ここの照明の角度と色も変えなきゃですね。」 「うん。こっちを目立たせるために、反対側の作品は少し暗めにして…。」 つい話に夢中になり、二人の体が近づく。ふいに、ももの指が橘の手の甲に触れた。 相変わらずのひんやりとした感触に胸が騒ぎ、ももは不自然でない程度に体を離した。 橘は、レイアウト図に修正点を書き込むことに夢中で、そんなももの様子には気づいていない。 ももは、少し上から橘の顔を見下ろした。 通った鼻筋に、長いまつ毛。変わらない橘の綺麗な顔に、ついうっとりと見惚れてしまう。 もうどれくらい、この瞳に見つめられていないのだろう。この肌に触れていないのだろう。 橘とのキスやセックスを思い出すと、否が応でも体が疼く。 今ではもう、橘からプライベートの連絡が来ることはなくなった。このまま関係が終わってしまうかもしれないと思うと、やり切れない気持ちになる。 自分から無視し続けた結果だというのに、こんなふうに思うのは勝手だとわかってはいるのだが。 しかし、そこで頭を過るのはやはり、この男はutaなのだという事実。 橘のことが好き。 utaのことが好き。 「好き」と「好き」が合わさったのに、「好き」は二倍にはならなかった。むしろ、不安だけが大きくなった。 それなのにどうにか、橘の横にいてもいいという理由を探していた自分もいたような気がする。だから、神崎に会いに行ったのかもしれない。 そして神崎の、「長瀬さんが出会った亮くんに何も嘘はない」という言葉に、ひどく救われてしまった。 「…どうかしました?」 ももの視線に気づいた橘が、怪訝そうに顔を歪めた。 ハッと我に返る。 …私は何を…。 「別に。…熊倉先生に、連絡入れておこうか。」 ももは慌ててイスに座ると、パソコンのメール画面を開いた。 「あぁ、じゃあ僕が。ポスターも出来上がってきたので、これのデータも添付しておきます。」 「そっか…。うん、お願い。」 「はい。」 カタカタとキーボードを打つ音が、さほど広くはない会議室に響く。パソコンに向かう橘は、ももの方に視線を向けることもない。 少しの寂しさを感じながら、でもこれは自分のせいなのだと言い聞かせながら、ももはテーブルの上に散らばった資料を集めて端に置いた。 カチッと、マウスをクリックする音がして、橘は立ち上がった。 「メール、送りました。」 「あ…うん。ありがとう。」 ももが笑顔を向けても、橘はこちらを見ようともしない。 「吉田館長に呼ばれてるので、行きます。」 と、パソコンを持って部屋を出て行こうとする。 思わずももは、橘を呼び止めた。 「あのっ…橘くん。」 その声に振り向いた橘の顔が無表情で、ももの体に緊張が走る。 「えっと…。」 呼び止めたものの、言葉が続かなかった。 今までごめん。 私はやっぱり橘くんのことが好き。 橘くんのそばにいさせて。 ただ素直にそう言えばいいというのに、橘の薄茶色の瞳に見つめられると言葉が出てこない。 「あの…。」 そんなももの様子に見かねたのか、橘はまたイスに腰を下ろした。 「はい?」 低い声でそう言うと、真正面からももをじっと見つめる。 以前なら嬉しくて恥ずかしくてドキドキしていたこの状況も、今は気まずい気持ちの方が大きい。 ももは耐えかねて目をそらすと、自分のファイルに挟んであったハガキを取り出した。神崎から渡されたものだ。 「…これ、神崎さんから。」 橘の前にハガキを置くと、それを見た橘の顔が強張った。 『同窓会のお知らせ』 ハガキには、そう書かれていた。
/110ページ

最初のコメントを投稿しよう!

628人が本棚に入れています
本棚に追加