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Ⅰ
灰色に淀んだ空が、低く垂れ下がる。
湿気を増した潮風の吹く港町。今にも雨が降り出しそうだが、それでも市場は人で溢れかえっていた。売り手の口上と買い手の歓声がさかんに飛び交う。
その中に混じった、荒く稚い呼吸。
周囲の人々よりも、頭ひとつ分低い位置を、少女がひた走る。フードを目深にかぶり、纏ったローブを振り立てながら、人混みを縫うように駆けていく。
できるかぎり遠くへ。うしろは振り向かない。
足の痛みも息苦しさも何もかも抑えつけ、リゼは自分にそう言い聞かせた。
走って、走って、走って。
人混みが途切れたところで、暗い路地裏へと飛び込んだ。日の当たらない狭隘な場所に既視感と嫌悪感をおぼえつつ、建物の切れ間を目指す。
明確な目的地があるわけではない。そもそも何がどこにあるのかすらわからない。ただ、今は、捕まらないように必死で逃げるだけ。
走って、走って、とにかく走って。
前方が白んできた。切れ間が、空が、見えてきた。——たばこの匂いがする。
「きゃっ!」
「うおっ! ……あっつっ!」
路地裏から一歩踏み出したその瞬間、真横から現れた人影とぶつかった。
勢いそのまま地面に尻を打ちつける。衝撃でかぶっていたフードは脱げ落ち、それまで隠していたリゼの容貌があらわとなった。
真白く長い髪。地面に波打つように流れたそれは、さながら淡雪のごとく澄んでいた。
「悪い! 大丈夫か?」
頭上から落とされた厚みのある声に、ばっと振り仰ぐ。
不安に揺らぐ黄金色の瞳が映じたのは、ひとりの男性だった。
「怪我は? どっか痛むとこあるか?」
心配そうに、申し訳なさそうに、武骨な手をリゼに差し出す。その手を取っていいものか惑っていると、彼は体ごと抱え起こしてくれた。
赤錆色の前髪から鋭く覗く黒瑪瑙。年は四十前後だろうか。長身に髭をたくわえた逞しい容貌は、まるで鷹のように威風堂々としていた。
「あ、ご、ごめんなさ……」
「いや、俺の不注意だ。火傷してねぇか?」
膝をついた彼にこう尋ねられた。目線が合ったことで、よりいっそう彼との距離が近くなる。
なぜ火傷?
質問の真意がわからず疑問符を浮かべてみたものの、それはすぐさま解消された。
「だ、だいじょうぶです。……ほんとに、ごめんなさい」
彼の足元に落ちた吸いかけのたばこ。そして、おそらくそれが原因であろう右手の腹の火傷。ぶつかった際、どうやら持っていたたばこを落としたらしい。
責任を感じたリゼは、男性の右手を自分の両手で包み込み、もう一度「ごめんなさい」と謝罪した。患部に直接触れないよう留意しながら、そっと力を込める。
「!」
男性は息を呑み、瞠目した。
リゼは瞑目し、全神経を両手に集中させている。
つかの間の沈黙。火傷とは異なる優しい熱が、患部にじわりと浸透していく。
「これでもう、だいじょうぶ」
「……お前、まさか——」
「いたぞ! あそこだっ!」
垂れ下がった空が震撼した。
はっとしたリゼが声のしたほうへ向き直ると、遠くから男たちのシルエットが3つ4つだまになって驀進してくるのが見えた。
とうとう見つかってしまった。今すぐこの場から離れなければ。また捕まってしまう。
彼にも、迷惑をかけてしまう。
彼の手をぱっと放したリゼは、たっと駆け出した。……つもりだった。
「なるほど。状況はなんとなく理解した」
「!」
駆け出そうとした足は空を切り、気づけば彼に担ぎ上げられていた。
風に髪が舞う。視界がひらける。
思考が追いつかずに目を白黒させていると、独特の浮遊感と鈍い振動が交互にやってきた。
「俺の服、しっかり掴んどけよ」
空がどんどん落ちてくる。男たちがどんどん遠ざかる。
ぽつ、と何かが鼻先に当たって弾けた。
——雨だ。
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