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 瞼で光が躍る。  鳥たちがかしましく朝を歌う。  かすかに肌寒さをおぼえ、身震いしたところで、リゼは目を覚ました。  聞こえているもの、触れているもの、香っているもの……すべてにおいて違和感だらけだが、一番強烈なのは光だった。 「……太陽」  大きな窓。そこから差し込む光の束に、リゼは得も言われぬ安堵感をおぼえた。 「よくそんな座ったまま寝られるな。羽痛くなんねぇの?」 「!」  声のしたほうに首を振ると、そこにはランスがいた。椅子に腰かけ、頬杖をつき、柔和な顔つきでリゼを見つめている。  おぼろげだったリゼの頭が、一瞬で覚醒した。  ここは、(たに)ではなく外の世界。そして、ランスが指定した宿屋のロビー。  ランスのことが心配で、明け方近くまで起きて待っていた。用意してくれた部屋ではなく、玄関に近いこの場所で。  あの人は強いから大丈夫。ここの主人は、豪快に笑ってそう言ってくれたものの、それでも不安と心配を払うことはできなかった。とはいえ、極度の疲労から、結局は寝落ちしてしまったのだけれど。  昨日のことがつぶさに蘇る。リゼは、かぶっていた布団をはねのけると、整った顔をくしゃくしゃにしながら彼のもとへ駆け寄った。  目頭が熱い。耳がじんじんする。しばらく口元を引き結んだまま涙を浮かべていたが、やがて、薄桃色の唇を小さく震わせた。 「……傷つけて、ごめんなさい……わたし、気づけなくて……」  琥珀糖のような声が、透きとおった涙の珠が、ぽろぽろこぼれ落ちる。  ランスの右腕には包帯が巻かれていた。手首から肘にかけてぐるぐると。白に染みついた赤が、ひどくいたいたしい。  信じていればよかったのだ、この人を。信じていれば、傷つけずにすんだのに。 「ごめんなさい……っ」 「お前はなんも悪くねぇ。……全部、俺が悪いから。だから、気にすんな」  ランスの口元が少し悲しげにほころんだ。武骨な指でリゼの目尻に溜まった涙を拭う。お前が無事でよかった。その言葉に、優しさに、リゼは胸の詰まる思いがした。  傷つけた右腕にそっと触れる。彼の顔が、わずかに歪んだ。 「包帯、とってもいい……ですか?」 「え? あ、ああ……」  リゼの申し出に、ランスは戸惑っている様子だった。が、すぐに承諾し、みずから包帯をはずした。  深く真っ直ぐ走った裂傷。赤みを帯び、膨れあがった皮膚の隙間から、再度血が滲みでてきた。まだ傷口は塞がっていない。  リゼの喉が上下する。思わず顔を背けそうになるも、かぶりを振ってぐっとこらえた。  逃げちゃだめ。急がなきゃ。自分にそう言い聞かせ、勇を鼓して、自分が傷つけた腕を両手で包み込む。 「……っ!」 「ちょっとだけ、我慢、してください。直接手をあてたほうが、力が伝わりやすいから」  昨日、火傷を治したときと同じように……否、それ以上に、リゼは両手に全神経を集中させた。  焼けつくような熱さがランスの右腕に広がる。たちどころに傷口は塞がり、()せて褐色に落ち着いた。  しかし、時間が経過しすぎたために、くっきりと創痕が残ってしまった。 「……ごめ、なさ……——」  言葉にならない。  罪悪感、などというひと言では、とうてい表すことなどできはしない。取り返しのつかない過ちに、リゼの心は引きちぎられそうだった。 「いい。こんなもんじゃとても(あがな)いきれないことを、俺はしてしまった。……お前が心に負った傷のほうが、よっぽど痛い」  ふと、リゼの目の前が真っ暗になった。たばこの匂いが鼻孔をくすぐる。  心臓の鼓動。まるいぬくもり。ランスに抱きしめられたと気づくまでに、少々時間を要してしまった。手のひらが触れた後頭部が、背中が、じいんと熱くなる。  はじめてだ。母以外の人に抱きしめられたのは。 「今回のことでよくわかったろ。外の世界は危険だ。……渓に帰ったほうがいい」  ランスの腕に力がこもる。ささやいた声は、切なさと陰りをはらんでいた。  あの組織は殲滅できた。けれど、有翼人種、とりわけバージェの民を狙う輩はあとを絶たない。  彼らの血涙をすくい上げられるほど、世界はまだ成熟できていない。ただただ時間だけが過ぎていく。現実は、あまりに残酷だ。  沈黙が立ちこめる。  それを先に揺り動かしたのは、リゼだった。 「……太陽って、こんなに眩しいんですね」 「……え?」  虚を衝かれて目を丸くするランスとは対照的に、リゼは目を細めた。愛おしそうに、窓の外を眺める。  母が語っていたこと。当時はわからなかったが、今なら少しわかる気がする。  雨があんなに激しく降ること。天候が荒れると海も荒れること。  連中のように悪い人間もいれば、ここの主人のように良い人間だっていること。  ランスのように、底抜けのお人好しがいること。 「小さいころ、お母さんに言われたんです。焦がれる気持ちを大事に育てなさいって。その気持ちがきっと、迷ったときの道しるべになってくれるからって」  彼に抱きかかえられたあの瞬間、リゼの世界が一気にひらけた。手を伸ばせば何にだって届きそうな気がした。あのとき駆け巡った高揚感は、きっとずっと忘れない。  この世界には、識らないことが、まだまだ溢れているのだろう。 「もう少し……あと少しだけ、この世界を見てみたいです」  陽光がさんさんと降り注ぐ。  傷ついたふたりを、きらきらと照らす。  瞳の中のランスが笑った。眉を下げて、困ったふうに。  けれども、その眼差しは、どこまでも優しくあたたかかった。 『おかあさんは、こがれたの?』 『……焦がれたよ』 『なにに?』 『——太陽に』  <END>
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