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 窓の向こうは土砂降りだった。  霧のような飛沫(しぶき)が、あたり一面を鉛色に覆う。まるで(かめ)の底が抜けたようなすさまじさ。音も獰猛だ。  リゼは、ひとりだった。ひとり、小屋のすみにうずくまっていた。抱えた膝のいただきから、暖炉の明かりをじっと見つめる。いつしか薪の爆ぜる音がしなくなった。正確には、この轟音でかき消されているだけなのだが。  外の世界の雨は、こんなにもはげしい。  リゼの知識が、ひとつ増えた。 「……ランスさん、だいじょうぶかな」  ぽつりとつぶやく。  獣のような豪雨を目の当たりにし、積もった心配がつい口から転げ落ちた。もしかすると、不安も入り混じっていたのかもしれない。 『様子見がてら、宿をとってくる。お前はここにいろ』  そう言って、ランスは小屋から出て行った。今ほど雨足は強くなかったが、それでも視界を奪われるほどの荒天だった。あれからどのくらい経つだろうか。正しい時刻はわからないが、確実に夜は近づいている。 「……っ」  ぶるっと、リゼは身を震わせた。  建てつけの悪くなった扉や窓から、隙間風が容赦なく吹き込んでくる。やおら立ち上がり、脱いでいたローブを手に取ると、もう一度頭からかぶった。まだ少し湿っていたけれど、着ないよりはマシ。そう判断した。  と、かぶった拍子に、足先に硬いものがあたった。はっとし、慌てて両手で拾い上げる。  ——鞘におさまった短剣。薄暗い中でも煌々と光るそれは、ランスから「護身用に」と渡されたものだ。 「きれい……」  (グリップ)を握り、そろりと半分あたりまで引き抜く。柄頭(ポンメル)から(ガード)、そして(フラー)に施された、緻密で繊細な彫刻。蔦の意匠を用いたそれは、見事な曲線美でもって表現されていた。曲線の先には、ところどころ花を模したように宝石がはめ込まれており、かなり高価な物であることがうかがえる。くわえて年代物。瑕でもつけたら大変だ。 「……」  短剣をローブの内側でぎゅっと抱え、再度うずくまる。暖炉の中で、爆ぜた薪が音もなく火の粉を散らした。  どうして、彼はこんなにも自分を気遣ってくれるのだろう。どうして、自分は彼に身の上を話したりしたのだろう。どうして……。  同胞たちのように、人間を憎んでいるわけではない。かといって、信用しているわけではけっしてないのだ。事実、彼が助けてくれなければ、自分は捕まっていた。  有翼人種(ウィングド)にもさまざまな人がいるように、人間もさまざまな人がいる。ただそれだけのことなのだろう。個に目を向けず、種族によって一様に性質を決めつけるのは、実に浅はかだ。  教えてくれたのは、母だった。  リゼの母もまた、渓の旧習や古い考えに懐疑的になり、外の世界へ飛び出したひとりであった。  行くあてもなく空を漂い、偶然降りたった先で父と出会った。おそらく、一目惚れしたという母の押しの強さに、父が完敗したのだろう。そうしてふたりは数年をともにした。  しかし、大国の貴族軍人だった父と一緒になることはできず、体も弱かったために、母は帰郷を余儀なくされた。  その後、リゼを身ごもっていることに気づいた母は、ひとりでリゼを産み育てた。  母は父を愛していた。心の底から愛していた。はなればなれになってもずっと、二度と会えないとわかっていてもなお、母は父を愛しつづけたのだ。  ど・ん。  突如。  小屋全体が、はげしく揺れ動いた。  雨音がよりいっそう大きくなり、湿った空気がどっと押し寄せる。心臓が早鐘を打ち、折りたたんだ翼はそそけ立った。  驚いた。けれど、ランスが戻ってきたと疑わなかったリゼは、立ち上がって扉のほうへ爪先を向けた。  そこには、思ったとおり、ランスがいた。……ランスだけ、ではなかった。 「探したぜ、お嬢ちゃん!」 「オラ、早くこっちに来い!」  どかどかと闖入してきた男たちに、逃げ惑う間もなく壁際へと追いやられた。  リゼは男たちに見覚えがあった。ぞわりと肌が粟立つ。よみがえる恐怖で足が、全身が、すくんだ。間違いない——あいつらだ。  距離を詰められる。ぬっと毛深い腕が伸びてくる。目をつむり、顔を背けて振り払ったけれど、一瞬で捕らえられてしまった。 「いた……っ!」 「おう、乱暴に扱うなよ。そいつぁ大事な商品だからな」  刹那、男たちに緊張が走った。  大きな影が、男たちをかき分けるように、のそりと歩み寄ってくる。まるでヒグマのような巨漢。お世辞にも俊敏とは言えない動きではあるが、なんというか、隙がない。さっきはいなかったはずだが、この男がリーダーなのだろうか。  男は、その低くしゃがれた声で、ランスに対してこう言った。 「ありがとよ、便利屋。これでオレらも当分食いっぱぐれずにすんだ。……ほら、受け取れ」  ランスの手にずしりと乗せられた、ぱんぱんに膨らんだ袋。その内側から、ちゃりちゃりと、硬質な何かが大量に擦れる音がする。  リゼはわかってしまった。すべて悟ってしまったのだ。今自分が置かれた状況も、袋の中身が、自分の居場所を教えた対価であるということも。 「どう、して……」  驚き、戸惑い、嘆き、悲しみ……黒い情動に胸奥を冒されるのを感じながら、潤んだ双瞳でランスを見つめる。  しかし、ランスから返ってきたのは、あまりにも非情な言葉だった。 「外の世界は、じゅうぶん識れただろ。……ろくでもねぇ」  冷たく言い放ち、踵を返す。それきり、彼がリゼと顔を合わせることは一度もなかった。  リゼの心の奥底、暗く深い場所で、何かが弾けた。ひと筋の涙が、頬を滑り落ちる。  リゼはそれ以上何も言わなかった。……言えなかった。 「便利屋いわく、もうすぐ保安官(シェリフ)が巡回する時間らしい。とっととずらかるぞ」  ヒグマのこの言葉で、男たちがリゼを大きな袋に詰め込んだ。  よどんだ水に沈む感覚。何も見えない。  うちひとりが、リゼを抱え上げ、どこかに積み込んだ。  何も見えない。何も見たくない。  リゼは、いっさい抵抗しなかった。  暗闇の中で、小屋の扉が閉まる音を聞いた。
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