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Ⅴ
『いい、リゼ。いつかリゼの心に生まれた〝焦がれる〟気持ちを大事に育てて』
『〝こがれる〟ってなあに?』
『強く望むこと。叶えたい、近づきたい、識りたいって、強く強く望むこと』
『……むずかしい』
『むずかしいね。それに、ちょっと……ううん、とっても怖いかも』
『……おこったおかあさんよりこわい?』
『あははっ。どうだろうね』
『……』
『……怖いけど、でも……その気持ちはきっと、リゼが迷ったときの道しるべになってくれるから』
『おかあさんは、こがれたの?』
『……焦がれたよ』
『なにに?』
『——』
❈ ❈ ❈
「どんなに叫んだところで外には聞こえねぇ。時間までおとなしくしてろ」
錆びた格子扉が、悲鳴を上げる。
窓がひとつもない。地下室だろうか。光源といえば、階段上の扉から漏れ落ちる明かりだけだった。
肌を這うような独特の湿気。建物に入る前は潮の香りもした。もしかすると、海が近いのかもしれない。
そういえば、ここへ来るまでの荷馬車の上で、男たちがこんな話をしていた。
『この天気じゃ海が荒れて船は出せねぇな。ひと晩待つか』
『わかりました。それまで倉庫に入れときます』
天気が悪いと海が荒れる。海が荒れると船が出せない。
山間の深い渓で生まれ育ったリゼにとって、海は未知の領域だ。想像することすら難しい。けれど、これから自分がどうなるかは、なんとなく想像できる。
同胞たちが言っていたとおりになるのだ、きっと。
無造作に積み上げられた木箱、その隙間で、なすすべなく膝を抱える。呼吸をするたび、埃っぽい匂いと冷え冷えとした空気が、リゼの肺を浸食した。
体が震える。息が詰まる。寒い。苦しい。
——つらい。
「……っ」
信じていた、ランスのことを。
もちろん、勝手に信じたのは自分だ。信じるに足る根拠もなければ、それだけの時間を共有したわけでもない。彼から逃げてもよかったのだ。そうする隙はじゅうぶんにあったのだから。
こうなってしまったのは、自業自得というよりほかにない。
ただ、リゼには、ひとつだけ気になっていることがあった。
『外の世界は、じゅうぶん識れただろ。……ろくでもねぇ』
あのときの、ランスの表情。
眉をひそめ、笑って吐き捨てた。まるで、自嘲するかのように。
はたして、彼の言葉に〝真実〟はなかったのだろうか。彼の言葉に〝嘘〟は存在したのだろうか。
がしゃ・ん。
ガラスの割れる派手な音が聞こえるやいなや、とたんに地上が騒がしくなった。
金属と金属のぶつかる音。次々と何かが倒れる音。怒鳴り声とうめき声が、ぐちゃぐちゃに入り混じる。
だが、あっという間に喧騒はやみ、誰の声もしなくなった。
いったい何が……。
状況を把握するどころか、想像すらできないまま、地下室の扉が開けられた。否、蹴破られた。
空気が頬をぶつ。
地上から明かりが降り注ぐ。
誰かが、階段を降りてくる。
「リゼっ!」
狭い空間に反響した、自分の名前。
聞き覚えのある声だった。全身から、さあっと血の気が引いていく。胸の奥がざわつき、顔をこわばらせて身構えた。
声の主は、ランスだった。
濡れた前髪をかき上げながら、こちらへと駆け寄ってくる。手には鍵束。そのうちのひとつを選ぶと、素早く解錠し、格子の中に入ってきた。
「大丈夫か? 早くここから出——」
「来ないで……!」
ざ・しゅっ。
ひゅっと、ランスが喉を鳴らした。
だらだらと、ぼたぼたと、彼の足元に滴る真っ赤な鮮血。彼の右腕を伝ってとめどなく流れるそれは、またたく間に床へ小さな血だまりを作った。
差し出された彼の腕を、リゼはとっさに斬りつけてしまったのだ。彼から渡された、あの美しい短剣で。
両手を震わせながらも、いまだ短剣をきつく握りしめたままのリゼに、ランスが優しく告げる。
「……っ、正しい使い方だ。そんだけ動けりゃ、大丈夫だな」
「あ……」
ランスの言葉で、リゼは我に返った。ぱっと、短剣から手を放す。真下へ落ちたそれは、高く硬い音を弾ませながら、湿った床を転がった。
生まれてはじめて人を傷つけた。肉を裂いた感触が消えない。怖い。こわい。コワイ——。
顔面蒼白でおののくリゼに、短剣を拾い上げたランスは一転、静かにこう言った。
「もうすぐ新手の連中が集まってくる。……逃げ道は確保した。今すぐ逃げろ」
再度短剣をランスから受け取る。わけがわからず立ち尽くしていると、彼に手を握られ引っ張られた。
階段を一気に駆け上がり、地上へ飛び出す。異様な空気が立ちこめる中、道なりに廊下を進めば、そこにはリゼを捕まえた男たちが無惨な姿で倒れていた。
壁や床に飛散した血、血、血。
さながら息が凍りつくような恐ろしい光景に、リゼの顔は完全に精彩を失った。
「……あ……あ、ぁ……」
「リゼ、俺を見ろ」
今にも泣き出しそうなリゼの両頬に手をあて、ランスは無理やり視線を奪った。自身の作り出した惨状からリゼの顔を逸らす。相変わらず目つきは鋭いままだったが、その黒瑪瑙には、たしかなぬくもりが宿っていた。
語調を落としてゆっくりと伝える。
まるで、親が子を諭すように。
「いいか、よく聞け。そこの割れた窓から真っ直ぐ東へ飛べば、さっきまでいた森がある。森の中で一番明るい建物を探せ。宿屋だ。建物自体少ないから、空からならすぐに見つけられる」
「で、でも……っ、わたし、飛べない」
「飛べる。ちゃんと渓から出てこれたろ。宿屋の主人に、お前をひと晩泊めてくれるよう頼んである。奥さんは有翼人種だ。ふたりとも、きっとお前の力になってくれる。……夜が明けたら、渓へ帰れ」
必要な情報を濾過してこれだけ伝えると、ランスは先ほどの報酬をリゼの胸元に押しつけた。「時間がない」と言わんばかりに、さらに窓のほうへと体を押しやる。腕の皮膚は裂けたまま。今もまだ血が流れている。
受け取ることを、ランスを残して行くことを、拒むようにかぶりを振ったリゼに、ついにランスが声を張り上げた。
「早く行けっ!!」
リゼの目から、涙が弾けた。
視界が滲む。胸がつぶれそうだ。
咽びたい情動を必死でこらえ、何度も何度もランスのほうを振り返りながら、リゼは飛び立った。純白の翼を精いっぱい広げ、東の空を真っ直ぐ目指して。
月がぶら下がっている。薄雲をまとい幽遠な光を放つ、下弦の月が。
雨は、ほとんどやんでいた。
❈
「——いっ、てぇえぇぇ……」
リゼが見えなくなった直後。
自身の右腕を押さえながら、ランスは悶絶した。
我慢してはいたものの、実はかなり痛かった。なんだあの短剣。儀礼用のくせによく切れる。
家と国を捨てた当時の記憶が蘇り、少々うんざりしたけれど、あの子のためならこの際自身の生い立ちなどどうでもいい。——本望だ。
「……はっ。まだあんなにいやがんのか。どんだけ湧いてくんだよ」
落ち着いて疼きをこらえる間もなく、腰の剣を抜く。20人くらいだろうか。続々と新顔が集まってきた。
新顔ばかり……と思いきや、その中には、あのヒグマもいた。
「便利屋……オマエ、オレらを騙したな?」
「騙してねぇだろ。俺は嘘は言ってない。ひと言もな」
「ふざけやがって!! 生きてここから出られると思うなよっ!!」
「るせぇよバカ。それはこっちの台詞だ。俺はとうの昔に正義のミカタごっこからは手を引いたがな……てめぇらだけは許さねぇ。ひとり残らずここでつぶす」
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