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ふらつく足取りで最終電車に乗り込み、誰もいないロングシートに腰を下ろそうと近づいて、私は足を滑らせ頭から座席へ突っ込んだ。
座席の感触を顔面で確かめる機会は初めてだけれど、さらりとした布地の表面は思いのほか心地良く、固すぎず柔らかすぎない適度なクッション性もあり、枕代わりにしてそのまま眠れてしまいそうだった。
体中に回り切ったアルコールのせいで、動くのも考えるのも億劫だ。這いつくばった姿勢でうとうとと船を漕いでいたけれど、動き出した車両の振動によって目下繊細な状態にある胃腸が揺さぶられ、急速に気持ちが悪くなって私はようやく体を起こした。
倒れ込むように座席にもたれ、手元のペットボトルを開けて口をつける。冷たい水をちびちびと飲みながら、向かい側の窓の上にある胃腸薬の広告を半目で眺めていると、多少ましな気分になってきた。
ペットボトルをバッグの隙間にねじ込み、私は足元の紙袋を持ち上げた。中には白い小さな袋がぎっしり詰まっている。居酒屋で意気投合した酔っ払いの菓子職人に「これうまいよお」と渡されたものだ。中身は何だと言っていたっけ? 多分食べ物だろうけれど、どうも記憶がはっきりしない。「うまいよお」しか言っていなかった気もする。
無骨なフォントで仰々しく「至高」と書かれた小袋を一つ手に取り、袋の口を結ぶ金色の針金を外して開ける。中身をひっぱり出すと、甘い匂いのする薄茶色の丸っこい物体が現れた。無造作にかぶりつく。軽やかな口当たりの香ばしい表皮の奥から、濃厚なカスタードクリームの奔流があふれ出てきた。
「シュークリームだ」
私は胃腸への気づかいを忘れて目の前の菓子を貪った。好物だからというのもあるけれど、あの菓子職人の言葉通りかなりおいしいシュークリームだ。それが紙袋いっぱいに山ほど詰まっている。私はキャッキャとサルとイルカの合唱のような甲高い歓声を上げた。思考の隅に残ったわずかな理性が「こんなに沢山食えるか」「弱った胃腸を労われ」と訴えていたけれど、アルコールの波濤に押し流されてどこかへ行ってしまった。
まだ一つ目の咀嚼が終わらないうちに、私の手は紙袋の中の二つ目以降へ引き寄せられていた。取り出したシュークリームが黄金のように輝いて見えた。かぶりつく。うまい。私は高らかに笑いながら涙を流しつつ小躍りした。
店で散々飲み食いした後にも関わらず、私の食欲は高まる一方だった。手も口もほとんど自動的に動き、私は袋に詰まった大量のシュークリームを夢中になって食べ続けた。普段の食事量とは比較にならない暴食をしているのに、いくら食べても満腹にならず、むしろ食べれば食べるほど腹が減ってくる気さえした。
「よい食べっぷりですね」
私の奇声を除けば静かだった車両内にふと声が響いた。両手に掴んだ食べかけのシュークリームを慌てて口に押し込み、クリームでベタベタの口元をティッシュで拭いながら顔を上げる。
目の前に人型のシュークリームが立っていた。
いや、正確には、全身ほとんど人間の形だけれど、首から上の頭だけがシュークリームだった。着ぐるみのような被り物だろうか。しかしそれにしては、本物のように香ばしげな焼き色で、思わず食らいつきそうになる魅惑的な質感をしている。腹がぎゅごうと鳴り、口内に唾液があふれ出た。
よく見ると服装も奇妙だ。丈の長いローブを羽織った下に、金色に輝く西洋甲冑のようなものが見える。華麗だけれどこちらはあまりおいしそうではない。
「お前はわたくしの従者にふさわしい」
シュークリーム頭の人が金色の籠手に覆われた手を私に差し出した。反射的に手を取ると、力強く引っぱられて立たされた。
「あの、ええと、あなたは誰ですか? 従者って……?」
私はふらつく呂律を何とか制御しつつ尋ねた。
シュークリーム頭の人がローブの襟を指で示した。シュークリームの包装で見たものと同じ無骨な書体で「至高」と金色の文字が刺繍されていた。
「わたくしの名は至高」
「シュークリーム?」
「シュープリーム」
「シュークリーム?」
「シュープリーム」
同じ問答をしばらく繰り返した。シュークリーム頭の人は律儀に何度も訂正した。酒とシュークリームにすっかり支配されていた私の脳も、最終的にはどうにか正しい名前を認識した。
「至高さん、それで、従者っていうのはどういうことですか」
「お前はこれより、わたくしの命に従う立場になるということです」
至高さんは床に倒れた空っぽの紙袋を指差した。あれだけ沢山あったシュークリームはすでに一つも残っておらず、今更自分の食べすぎを認識して背筋が寒くなる。この後とんでもない激腹痛が押し寄せませんように、と祈るような気分で腹をさすった。
「これはわたくしが用意したものです。目ぼしい人物を探して渡すよう従者に命じていました」
「えっ、つまり、あの職人さんはあなたの……」
「九番目の従者です。そしてお前が十番目」
至高さんが私の肩に手を置いた。
「あれを食べ尽くした者には資質があります。わたくしの従者となり、共にやつらを平らげる資質が」
「やつら? 平らげるってどういう――」
突然電車が激しく揺れ、私は危うく再び座席に顔から突っ込むところだった。転びかけた私を至高さんが受け止め支えてくれた。甲冑の角張ったところがあちこち当たってちょっと痛い。
『次は襲撃、襲撃。お入口は右側です。お出口はありません』
奇妙な車内アナウンスが流れた直後、車両右側のドアが一斉に開いた。
ドアの外は一切の灯りがなく真っ暗で、どこかの駅のホームではないようだった。目を凝らしても何も見えないけれど、夜闇の中からこちらに近づいてくる何かの気配を感じる。
緩慢な足音を立てながら、複数の何かが車両に乗り込んでくる。
車内の灯りに照らされたそれらは人間の形をしていた。そして全員、頭がシュークリームだった。
私は入ってきた人たちと至高さんの間で視線を往復させた。あっちもシュークリーム、こっちもシュークリーム、いずこも同じシュークリーム。また腹が減ってきた。
「あの、親戚の方々ですか? そっくりですけど」
「何ですって? わたくしがやつらと?」
至高さんの固い指先が私の頬をつねり上げた。
「やつらはクリーマー。わたくしたちが対処すべき危険な連中です。とぼけたことを言っている場合ではありませんよ」
「ひゃい……」
解放された頬をさすりながら、クリーマーと呼ばれたシュークリーム頭の人々を改めて観察する。
至高さんと同じく、どの頭も見るからにおいしそうで、本物みたいなシュークリームっぷりだ。ずらりと並んだ様子は壮観で、洋菓子店のディスプレイを前にした時のような高揚と食欲を感じる。
頭以外は一見すると人間だけれど、あちこちの関節が妙な方向に曲がっていたり、腕が軟体動物のように不規則にうごめいていたり、全員やたらと大きいブカブカの靴を履いていたり、よく見るとおかしな点がけっこうある。
クリーマーたちは足のサイズに合わない靴をカパカパさせながら、緩やかに私たちの方へ近づいてくる。足取りは不安定にふらついていて、酔っ払った私とそっくりだ。大勢のシュークリーム頭が一斉に千鳥足で迫ってくる光景は、不気味なゾンビ映画のようでもあり、シュールなコメディ映画のようでもあった。
視界の端でローブがはためいた。金色の籠手が先頭のクリーマーに向かって突き出される。私の目では追い切れない速さで、至高さんの手がクリーマーの頭を鷲掴みにした。
ひゅぽ、と軽い音を立てて、シュークリームが首から外れた。
呆気に取られた私の眼前で、頭を失ったクリーマーの体が、溶けるように薄黄色の粘々した液体に変わっていく。綺麗に磨かれ光沢をまとった車両の床に、甘いクリームのようにも酸っぱい吐瀉物のようにも見える液体がこぼれ落ちた。
残されたシュークリーム頭は急速に縮んでいき、至高さんの手のひらに乗る大きさになった。店売りのシュークリームと遜色ない、食べやすそうなサイズだけど、製造過程を考えるとちょっと食べる気にはなれない。
「食べなさい」
「えっ」
至高さんはこちらにシュークリームを投げて寄越した。
「やつらの力の根源は頭のシュークリームにあります。対処の仕方はいくつかありますが、頭を引き離して食べてしまうのがもっとも手早く安全な方法です。だから食べなさい。それがお前の役目です」
「あんまり変なもの食べたくないんですけど……お腹壊すといやだし……」
「すでに山ほど食べていますよ。あの紙袋のシュークリームはすべて、試験用に保存していたクリーマーの頭です」
一瞬何も言えなくなって、すぐに「ぎゃああ」と口から悲鳴が漏れ出た。
「先ほどは熱心に食べていたでしょう。同じことを繰り返すだけ。体に害はないから安心なさい」
「ううう、急に気持ち悪くなってきた」
「酒のせいですよ」
至高さんはぶっきらぼうに言葉を切った。ローブの下から金の腕を閃かせて後続のクリーマーの頭をもぎ取り、縮み始めたシュークリームを私のそばの座席に放り投げる。間髪入れずに別の頭を引きちぎって投げ、また別の頭をちぎっては投げ、ちぎっては投げの大立ち回り。ひゅぽぽひゅぽぽぽと軽快な音が連なり、吊り革の下を猛然とシュークリームが飛ぶ。頭を失ったクリーマーたちの体は黄、白、赤、緑など色とりどりの液体に変わり、車両の床をカラフルかつベタベタに彩っていった。
私は手の中のシュークリームをじっと眺めた。確かにさっきまで食べていたものとよく似ていて、材料の問題から目を逸らせば本当においしそうだ。見れば見るほど吐き気は和らぎ、代わりに口内で唾液の大波が荒れ狂った。
気がつくと舌の上が甘く、手元のシュークリームは消えていた。両腕はすでに座席上に投げ込まれた次の獲物たちに伸びている。積み上がったシュークリームたちはいずれも、まぶしくおいしい輝きを放っているように見えた。
いつからか車内放送のスピーカーからシューベルトの交響曲が流れていた。旋律に導かれるように手が動き、シュークリームを恭しく掴み取る。
「平らげなさい。わたくしとともに」
もぎたてのシュークリーム頭を高々と掲げ、至高さんが号令を発した。至高さん自身の頭のシュークリームは天井からの光を浴びて、ひときわ気高く美しくおいしそうに煌めいていた。私の腹が激しく高鳴った。
ためらいをすべて大脳辺縁系の彼方に放り捨てて、私は目の前のシュークリームに無我夢中でかぶりついた。
駅前のベンチにだらりと背を預けると、ひんやりした夜風が頬を撫で、私の口から巨大なくしゃみが飛び出た。
「どわっくへい!」
深夜の静寂の中では際立つ轟音だった。耳を熱くしながら辺りを見回したけれど、街灯の光の下に動く人影はなく、キャベツをくわえて天を仰ぐカピバラの像だけが厳かに佇んでいた。
つられて私も夜空を見上げる。電車でさんざん食べまくったせいか、空に浮かぶ満月がシュークリームに見えてきそうだ。
結局何十体ものクリーマーを食べたのに、満腹感はまったくない。至高さんの話によると、私の体にはクリーマーへの耐性があって、構成物を体内に取り込んでもすぐに分解されるらしい。食べ物の消化吸収とは別の仕組みだから、いくらシュークリーム頭を食べても腹は膨れないし、エネルギーや栄養にもならない。
糖分過剰や激腹痛を心配する必要がないと分かって、私は深く安堵の息を吐いた。吐いた息は香ばしく甘い匂いがした。しばらく口臭がシュークリーム風になるのが唯一の影響らしかった。
酒臭いよりはマシだろうかとぼんやり考えていると、駅舎の方向から金属質な足音が聞こえてきた。
こちらへ歩いてくる至高さんの腕には、パフスリーブのセーターを着た人が抱きかかえられていた。安らかで気持ちよさそうな寝顔を浮かべ、「たいへん甘いですねえ、甘いですよお」と機嫌よく寝言をつぶやいている。甲冑に覆われた腕の中は固くて寝心地が悪そうだけれど、今にもよだれを垂らしそうな緩み切った表情で至高さんに身を委ねる姿を眺めていると、ちょっと羨ましい気がしてくる。
「大丈夫なんですか、その人」
「処置はしました。寝かせておけばじきに回復するでしょう」
クリーマーたちを平らげた後、私たちは食べ残しがいないか電車内を見て回り、二つ隣の車両でクリーム状の液体にまみれて倒れている人を発見した。
至高さんが言うには、耐性のない人がクリーマーに触れたり食べたりすると、全身の力が抜けて意識が曖昧になるらしい。そして夢うつつの状態のまま、大量のプチシューが積まれては崩れ、積まれては崩れを繰り返す、賽の河原みたいなクロカンブッシュの幻覚を見続けるという。確かに私たちが見つけた時、あの人は「もう積まなくたっていいじゃないですか。早く食べさせてくださいよお」とうわ言をつぶやいていた。
「ひどいですよ、無垢な酔っ払いを騙して。危ないものと知ってたらあんなシュークリーム食べませんでした」
「お前には耐性があると言ったでしょう」
至高さんはセーターの人を隣のベンチに寝かせた。
「むくれるより誇りなさい。お前は立派に最初の務めを全うしたのだから」
「最初ってまさか、今後もやらせるつもりですか。いやですよ、お断りです、二度とやるもんですか。もうシュークリームなんて見たくもない。私はこれからエクレア派に鞍替えします」
「……聞き分けのない従者ですね」
至高さんが冷ややかにつぶやき、ローブをはためかせて両腕を振り上げた。反射的に私も両手を掲げ、「お、お、脅かしたって駄目ですよ」と精一杯の威嚇のポーズを取る。
金色の籠手は私の方ではなく、自らのシュークリーム頭へと伸びていった。肌というか生地というか、薄茶色の表面にめり込むほど力を込めて頭の両側を掴む。ふっと短い吐息が聞こえた。
ぎち、と生々しい音を立てて、シュークリームが首から外れた。
「褒美を与えます。これで不平を収めなさい」
呆然と大口を開ける私に、至高さんがもぎたての自分の頭を差し出した。
威嚇用に掲げっぱなしだった両手を震わせて、のろのろと頭を受け取る。クリーマーの頭のように縮む様子はなく、そのまま頭の大きさのシュークリームだ。焼きたてのような生地の香りが鼻腔を刺激し、手のひらに伝わる繊細な感触は極上の口当たりを予感させる。もぎ取る時に破れたのか側面に小さな穴が開いていて、黄金のように煌びやかなカスタードクリームの輝きが垣間見えた。
「わたくしはこの者を送り届けます。お前は自分で帰れますね」
至高さんがセーターの人を再び抱え上げる。私は両手に持ったシュークリームと、首の上の空間越しに見える満月を見比べながら、「はあ」と腑抜けた声を返すしかなかった。
「さようなら、十番目の従者。近いうちにまた会いましょう」
静寂に硬い足音を響かせて、頭のない背中が夜闇の向こうへ遠ざかっていく。
ベンチに一人残された私は、特大のシュークリームを放心したように眺めていたけれど、やがて腹の中で急激に感情が膨れ上がった。
私は満月に向かって吠えた。
「もうシュークリームは食べ飽きたってば!」
けれど至高さんのシュークリームはあまりにもおいしくて、自宅に持ち帰って一日も経たないうちに食べ切ってしまった。
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