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玄関を開ければ雨雲が空にのし掛かっており、空気が湿っていつもより重い。大学へ向かう足取りまで重くなる。
その道順はいつも決まっている。最寄駅から七時四十五分発のバスに乗り、ICカードで料金を払う。途中コンビニに寄りおにぎりとコーヒーを買うのも忘れない。
「おはよ」
と声をかけてきたのは同じゼミの同級生だ。名前は覚えていない。有坂は事故で休学していたため、気づけば年度が変わって講義やゼミの面子はごっそり入れ替わっていた。
大して話もしたことがないのに人懐こくまとわりついてくる青年を、有坂は正直煩わしく思った。
「またそれ?」
青年は有坂の持つ鮭おにぎりとブラックコーヒーのボトルを見て言った。またとはなんだ、いつも人の買うものをいちいち見ているのかと不快感が顔を出す。
「い、いつもと同じのがいいから」
言い返すも久しぶりに誰かに話しかけた為、最初の一言が喉に引っかかった。
いつもの道のり、いつもの服、いつものメニュー。そうやって"いつもの"を積み重ねていけば、いつかそれが"自分"になる気がしていた。逆に、"いつもの"から外れると、自分でない何かになってしまうようで怖かった。ただでさえ、この身体はほとんどが自分のものではない。
「でもさ、」
「いいだろ別に」
噛み付くように言えば、青年はなんだよぉ、と困ったように眉を下げる。有坂は苛つき始めた。
変わったのは外見だけではない。味覚や心地よいと感じる音の大きさや風呂の温度、そして夜毎見る夢――――
単に嗜好が変わっただけと言えばそれまでだが、それらの転機はすべて事故の後からだった。身体の回復とリハビリに努めている間に同級生たちは一つ上の学年になっており、ますます"いつもの"から取り残された。有坂は、自分を保つのにいつだって必死なのだ。
青年は別の同級生に話しかけられ、有坂からすっと離れる。有坂もまた背を向けて、レジに並びいつもの値段の小銭を財布から取り出した。
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