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それからも、有坂はその日決まった講義を受けていつものアルバイト先へ向かい、深夜までパンの工場で働いた。焦げた食パンや形が歪なロールパンをベルトコンベアから弾く作業だ。こうした単純作業は有坂の心を落ち着かせる。すぐ辞めてしまう人間が多いらしく、一年近く続けている有坂の評判は悪くない。
工場から駅に向かう途中に雨が降ってきた。有坂はいつもリュックに折り畳み傘を入れておりそれを広げる。
「すみません! ちょっと入らせて」
何者かが有坂の肩を掴んだ。有坂は声に出さず驚き足がもつれる。しかし肩を掴んだ手がよろめく有坂の身体を支えた。
有坂は傘に入ってきた男の顔を見た。彫りが深く鼻梁が高い顔はハーフのようで、髪質もパーマをかけているのか癖がある。二重瞼の大きな目が有坂の目とパチリと合った。
有坂の頭の中に稲妻が落ちた。それは恋に落ちる音ではなく衝撃と動揺をもたらした。なんで、どうして、という疑問が嵐のように吹き荒れる。半開きになったままの口の中が乾いていく。
スーツ姿の男は有坂の肩を抱いたまま、商店の軒下にたどり着くと
「ごめんね、びっくりしたよね」
と苦笑し抱えていたA4サイズの茶封筒をジャケットの内に挟む。大事な書類でも入っているのか、濡れたら困る代物らしい。
有坂の心臓は、鼓動が脳に届くほど強く脈打っている。いつものことじゃない、早くいつもの道に戻らなければと思う焦りと、この機を逃してはならないという直感が脳内で火花を散らす。
「……待っててください」
有坂は男に声をかけ、三軒先のコンビニに走った。そして数分もせず走って戻ってくる。
「これ…………」
有坂は透明なビニール傘を男に差し出した。
「わざわざ買ってきてくれたの?! ありがとう」
男は戸惑いより喜びを露わにしており、有坂はその笑顔にホッとした。そして確信を持つ。
「あの、俺、あなたと……会ったことがある気がします……」
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