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僕が撮る写真に、人の顔は一切写っていない。
写さない。
そう決めたのは、もうずいぶん昔のことだ。
あの頃、まともに仕事にありつけなかった僕は、地元の小学校や町内会の行事の写真を撮っては、一枚五十円で売っていた。
数をこなしても、それは生活費の一部という位置づけ以上にはならず、下宿先のキミさんの好意がなかったら、食事すらまともに取ることができなかった。
キミさんは、僕の祖母くらいの年齢で、ちょっとうざったいくらいお節介を焼いてくる人だった。
「藤本くん。ボタン取れてるじゃない。付けてあげるから脱いで」
「ああ…いいですよ。別にこのままで。落としちゃったからないですし」
「ボタンの予備くらいいくらでもあるから」
キミさんは、「よっこいしょ」と腰を上げ、電話台の下段から青色の丸缶を運んで来た。
ところどころ絵柄が剥げている缶の中でじゃらじゃらと音が鳴る。
僕はあからさまにため息をついた。
キミさんが後生大事に持っているボタンは、僕にとって無意味な物でしかない。
まさか僕が身を乗り出して、ボタン選びに夢中になるとでも思っているのだろうか?
ボタンがぶつかり合う音は、赤ちゃんをあやすガラガラみたいに聞こえ、まるで機嫌を取られているようで不快だった。
「本当にいいんで」
キミさんとの会話は、いつも僕が一方的に不機嫌であり、日常的に捨て台詞を吐いていた。
今思えば、自分の人生が思い通りに進まない腹立たしさを、情けないことに、いつもキミさんにぶつけていたのだ。
キミさんは、そんな僕を嗜めることも、励ますことも、慰めることも一切なかった。
ただ毎日「一人分作る方が難しいのよ」と、朝昼晩の三食を一日も欠かすことなく、僕に与えてくれた。
それはとんでもなくありがたいことだったのに、いつの間にかキミさんに好意を当たり前のように思うようになり、皿さえ下げない日もあった。
ある日、僕は小学校の運動会で撮った写真を畳の上に広げ、学校に掲示するために模造紙に一枚一枚貼り付ける作業に取り掛かろうとしていた。
僕は、写真を目の前に呆然とした。
もし僕がこの中の誰かの親だとしても、欲しい写真が一枚もないと気づいてしまったからだ。
全ての写真が、ただの記録に過ぎず、感情の一欠片も動かされなかった。
写真を撮り続けても認められない理由はここにある。
やっと気づき、理解し、納得した。
もう見たくない。
僕は、広げた写真を放置したまま、飲みに出た。
日付が変わってから、ふらふらと下宿先に戻ると、茶の間の灯りがついた。
いつもは22時には寝てしまうキミさんがまだ起きている。
僕は余計な心配をして起きているキミさんに舌打ちしたい気分で、わざと乱暴に玄関の扉を開けた。
茶の間から、いつもの「おかえり、藤本くん」の声が聞こえなかった。
背筋がうすら寒くなる。
キミさんに何かあったのか?
「キミさん!」
襖を勢いよく開けると、背中を丸くしたキミさんが、畳の上に散らばった写真を見ていた。
…なんだ、元気じゃないか。
キミさんが無事だとわかると、僕はまたいらいらしはじめた。
何で、こんな価値のない写真なんか見ているんだ!
「藤本くん。これ、この写真の…この子…」
キミさんの皺だらけの手が、一枚の写真をそっと指差す。その写真には、運動会を観戦する母と幼い子の後ろ姿が写っていた。
二人は、小さな赤と白の旗を持って踊る小学生を見ている。
「これが?」
語気が荒くなる。
いい写真だとでも褒めたいのか?
だったらやめてくれ!
僕は広げた写真を片付けなかったことを後悔した。
「藤本くん。これ、もらってもいいかい?」
「は?」
揶揄われているのか?
「何なんだよっ」
僕は台所に飛び込み、蛇口を乱暴にひねった。
勢いよく流れ出る水を直に飲む。
顔を濡らす水も僕を毛嫌いしているようで、はねては服を濡らした。
キミさんの声が背中越しに聞こえる。
「この端っこで踊っている子…。みんな右手の赤い旗を上げているのに、左手の白い旗を上げてるでしょう?美里もね、いつもそうだったのよ。それを私と郷介がドキドキしながら見ててね…」
何の話をしているのか僕にはさっぱりわからなかった。
キミさんは、ひとりごとみたいに喋り続けた。
僕の酔いは、冷たい水のせいか、キミさんの話のせいか、いつの間にか冷めていた。
昼過ぎて、やっと目が覚めた。
キミさんの姿はなく、ちゃぶ台の上には、茹でた素麺に缶詰のみかんときゅうりが乗せられてぴっちりとラップがかけてあった。
「冷蔵庫にいれてくれりゃあいいのに」
悪態をついた僕は、黒電話の横に運動会の写真が飾ってあるのを見つけ、昨日のキミさんの話を頭の中で再生した。
キミさんには、娘と息子がいる。
だけど、もう何十年も会っていないし、消息もわからない。
キミさんはその理由には触れようとせず、ただ「藤本くん、ありがとう。思い出させてくれて」と、頭を深く下げて泣いた。
僕が撮った写真の家族が、キミさんには自分の家族そのものに見えたのだ。
「あら、起きたの?藤本くん、酷い顔してるわよ」
キミさんが買い物籠を下げて、帰ってきた。
僕は、キミさんと麦茶を飲み、すっかり固まってぬるい素麺を食べた。
もちろん、皿は自分で洗った。
僕は、この時から、顔や姿がはっきり見えない写真ばかりを撮るようになった。
写真を見た誰かが、大切な誰かとの時間を重ねられるように。
僕みたいに八方塞がりになっている誰かが、自分の未来を、写真に当てはめられるように。
顔がない写真は、見る人の世界を広げる。
希望が広がる。
優しさや懐かしさが深くなる。
本物じゃないその写真を、キミさんは、死ぬまで飾っていた。
黒電話の横に。
いつか子どもたちから電話がかかってくることを願っていたのかもしれない。
僕はキミさんのおかげで気付いたのだ。
僕が撮るべき写真は、顔や表情がないものだということに。
どこかで誰かが、僕の撮った写真を自分の人生の色に染めてくれればいい。
嬉しさや悲しみや、懐かしさが、染み出してくるような、そんな写真を、僕は撮り続けよう。
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