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「皆さんからオーナーと呼ばれてはいますが、僕はまだ研修中の身で実際には役職についていません。なので、ただの『楚天華』と呼んでもらいたいのです」
「そ、それはさすがに……」
「……駄目でしょうか?」
天華は悲しそうに長い睫毛を伏せる。蜜色の目を潤ませて落ち込む姿が、まるで雨の中に捨てられた子犬のようで、きゅーんと切なく鳴く声が聞こえてきそうだ。
うぐ、と言葉を詰まらせる晩霞に、天華はさらに言い募る。
「どうか、天華でかまいませんから。小楚や小華でも」
いや無理だろ、と晩霞は心のうちで突っ込む。
姓に『小』をつけるのはポピュラーな呼び方ではあるが、初対面、しかも立場がかなり上の人に対して呼ぶものではない。名に小をつけて呼ぶのは、よほど親しい間柄でないと無理だ。名をそのまま呼ぶのも然りである。
そもそも『小華』なんて呼んだら、前世のあいつとまるかぶりではないか。
だが、断って彼の機嫌を損ねれば、今後の職場環境に影響が出るかもしれない。晩霞は愛想笑いと共に提案する。
「じゃ……じゃあ、『楚先輩』はいかがでしょうか? 私は後輩になるのだし……」
晩霞の案に、天華は不満そうな色を残しながらも「わかりました」と頷いた。ようやく手が離れてほっとするが、相変わらず距離が近い。
「それでは、あなたのことは何と呼びましょうか。小晩? 小霞?」
ぐいぐいと来る天華に対して、ときめきよりも不審が勝ってしまう。イケメンに迫られてドキドキな展開は、漫画の中だけでいい。
「……ただの『朱』でお願いします」
晩霞が笑いを引っ込めて固い声で答えれば、天華は人懐こい微笑みを崩さぬまま、しかしちゃんと了承した。ぐいぐい押すだけでなく、引き際は心得ているようだ。
「では、小朱と呼びますね。改めて、これからよろしくお願いします、小朱」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
呼び方が決まって満足したのか、天華はキッチンカーを再び楽しそうに見やる。
よし、これで無事に昼食が買える。そう安心した晩霞だったが、その後「小朱は何が好きですか?」「小朱のおすすめを教えて下さい」と立て続けに聞かれて、再びげんなりする羽目になるのだった。
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