刷り込みなり

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 美奈里は人を好きになっていない状態で生きていくことが難しい。失恋直後の空白期間。美奈里にとっては、生きた心地のしない期間。その期間をできるだけ早く埋めようと、防衛本能が働くのであろうか。玲美の言う「刷り込み」が毎回速やかに発動される。  美奈里の初恋は、小学一年の時。校庭の砂場で一人、いつもの泥団子を作って遊んでいると、健斗(けんと)君が「みんなで鬼ごっこするから、一緒にやらない?」と誘ってくれた。それを聞いた美奈里は、健斗君が好きになった。一週間後、みんなの前で、健斗君の頬に、チュッとした。「わーっ、わーっ」と周りがはやしたてた。健斗君はそんなみんなの前で、美奈里の目を見て「ごめん、僕、まりこ先生が好きなんだ」 と真剣な顔で言った。美奈里の初恋は終わった。  失意の帰り道、いつもの横断歩道に差しかかると、子ども達の下校の安全を守るボランティアのおじさんに、声をかけられた。 「美奈里ちゃん、今日は元気がないみたいだけど、大丈夫?」 「横山のおじさん」  横山のおじさんは、定年直後の少し頭の上がった小太りの男性である。 「そうだ、おじさんが飴ちゃんあげよう」  そう言って、横山のおじさんがポケットから大玉の飴を一粒取り出して、美奈里に渡してくれた。 「ありがとう、横山のおじさん」 「気をつけてね、元気出してね」  横断歩道を渡り切ると、飴玉を包みから取り出して、口一杯に頬張った。シュワシュワっとラムネの味がした。美奈里は横山のおじさんが好きになった。  家に帰ると、美奈里は画用紙におじさんの絵を書き、周りをハートで埋め尽くした。次の日それをランドセルに入れて学校に行き、帰り道、横山のおじさんを見つけると、その絵を渡した。  横山のおじさんは「昨日の飴ちゃんのお礼かな。ありがとう、美奈里ちゃん」と嬉しそうに笑った。美奈里は大満足であった。  それから数日、横山のおじさんは帰り道に立っていなかった。美奈里はおじさんに会いたくてたまらなかった。   雨の日、おじさんが横断歩道の前に立っていた。ピンクの傘にお揃いのピンクの長靴をはいた美奈里がおじさんの所に向かう。 「横山のおじさん」 「お帰り、美奈里ちゃん、何だい?」 「結婚してください」  雨がしとしと降っている。小さな傘に、小さな長靴をはいた小さな子が、真剣に愛を訴えている。定年直後のおじさんに。横山のおじさんは、そんな美奈里をいじらしく思い、自分も真剣に答えなければと、傘を差したまま、中腰になって、美奈里の目をしっかりと見ながら言った。「おじさんにはね、結婚しているおばさんがいるんだよ。おじさんはね、そのおばさんが好きだからね、美奈里ちゃんとは結婚できないんだよ。美奈里ちゃんにはね、おじさんなんかよりもっともっといい人がこれからいくらでも現れるから、だから心配しないでね」  そう言って、横山のおじさんは、ポケットから大玉の飴を一粒取り出し、美奈里の上着のポケットに入れた。美奈里の二回目の恋が終わった。
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