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日向直にとって、放課後の教室ほど安らぎと孤独を感じる場所はない。できることなら残りたくはないが、他に行くあてがあるわけでもなく。
窓の外を走る陸上部員——。もうすぐ大会だ。彼らのように心血注ぐものがあればよかったのに。気がつけばもう高校三年生。打ち込むべきことといえば受験勉強くらいか。しかし進路すら決まっていないのに、目標もない状態で何をどう頑張ればいいのか。
はぁ……と、直はため息をついた。すかさず友人三人の視線がとんできた。
「あ、ため息なんかついちゃって。運が逃げてくよ」と美結に指摘される。
「わかった。陸部の青木くん見てたんでしょー。彼氏いるくせに、この浮気者ー!」と真希が校庭に目をむけた。
「陸部のエースで成績もトップ。おまけに眉目秀麗って完璧すぎない? あぁ、なんていうか。罪だわ」といって、優香は机に座った。
「あれ、そんなセリフ今朝みた」
そういって美結は、スマートフォンの画面を皆に見せる。
「……『エースであることは罪だといわれたが、笑えない』ってなにコレ。自慢にしか聞こえないんだけど。もっと謙虚なことつぶやけよ!」と優香は画面にうつる投稿を読みあげると、足を組んだ。短いスカートの下から太ももがはだけている。
「でっ直は、最近どうなのよ?」
「え、どうってなにが?」
「音也とうまくいってんの?」
直は、少し間を置いてうなずく。友人たちは、テンションをアゲているが彼女の顔は晴れやかでない。
「なんかあったの、まさかケンカ中?」
「ううん、そうじゃない」
「じゃぁ、なんよ。その浮かない顔」
「いや……その」と直は口ごもる。
「あぁーあ。私もはやく新しいカレシつくらないと。このままじゃ、夏休みになっちゃうよ! いいひといないかな。こう、おとななひと」
そうぼやいた優香に真希がいった。
「じゃさ。教育実習生のひとどう?」
「あっ、夜部ね! ないない。なんか前髪長いし、暗いじゃん。しかもあのだっさいメガネ。ぜったいオタク」
「しっ。優香、それ偏見」
「だって、やべぇ先生っていわれてたよ。美結、顔みた?」
「残念、みてないよ。ねぇ、直はみた?」
「……知らない。そもそも教育実習生なんてきてたんだね」
「たった二週間は短いよねぇ」
「でもさ、じつは、憧れるんだよね〜。先生と学生の恋愛って。小説とか映画でよくあるじゃん。ほら、この前のドラマも教育自習生と生徒の純愛だったし。なんかロマンチック……」
「優香、いい方がエロい」と真希。
「私も、パス。それ犯罪だよ」と美結。
「それは、やべぇ夜部せんせいだからでしょっ」
——盛り上がっていく会話に取り残されている気がする。
直は、自分がこの場に居続けなければならない理由がみつからない。椅子から腰をそっとあげた。
「えっ、直どしたー?」
「ちょっと……トイレ」
「直、だいじょぶ?」
「胃下垂めー。うらやまし。それ以上痩せるなよー」と、優香は全然心配ではなさそうだ。
教室をあとにした直は、胸の奥にあった風船から一気に空気が抜けた。彼女はまるで、おいしくないものを食べたような顔でとぼとぼ歩く。
女子トイレの鏡に映る顔をじっと見つめていると、背後にひとりの男子が立っていることに気がついた。
まさか。いつのまに——まぶたを見開いた直の肩に腕をまわし、彼は抱擁する……。首筋にキスをされた。直は片手で口をふさいだ。催涙弾をあびたような瞳は潤いを増していく。恐怖心と、嫌悪感と。声が出せないほどの不快感に見舞われて、彼女は視界をぎゅっと閉ざした。
しばらくしてまつ毛をそっと持ち上げると、鏡には誰もうつっていなかった。それは直の幻覚だった。
*
二日後の放課後。校舎の裏手でひそかに会話する女子生徒と男子生徒のカップルがいた。ごくありふれた、青春の一ページを切り取ったようなよくある風景……。
「このまえの映画、つまんなかった?」と、音也は壁によりかかっている直にきく。
——あぁ、あの映画か。とメランコリックな気分がよみがえる。ちまたで人気の高校生カップルの純愛物語というから観てみれば。主人公の女子高生が作中で三回レイプされたあげく、クライマックスでは性交した恋人に一方的な別れを告げられる、という悲恋の物語だった。官能的な生々しいシーンを思い出すと、直は気分が悪くなった。
「そんなことないよ。どうして?」
「だって途中でいなくなって、ずっと戻って来なかっただろ」
「それは、トイレだっていったでしょ」
「それだけ?」
「そうだよ」
「今週の日曜日さ、なんか予定ある?」
「ううん。ないよ」
「おれの家にこない?」
その質問に直は返事ができない。音也は彼女の近くへ一歩ふみだした。直はあとずさったが、背後はコンクリートの壁だった。
「ね。家こない?」
——これは俗に若者言葉でいう『壁ドン』というやつである。音也が手をつくと直は黒目をわずかにそむけた。
「まだ、予定わからないよ」と細い声で答えると、彼は「うん。わかった」とほほえんだ。それから直のあごに手をおいて顔をむけさせる。これが俗に若者言葉でいうところの『あごクイ』というやつである。
あぁ、もう、今日は最悪だ。と、直は思った。案の定、キスをされた。彼の唇が自分の唇にまとわりつくあいだ、ずっとスカートのすそをにぎりしめていた。もしも、彼の舌が入ってくるかと思うと、恐怖で鼓動が不規則に強く打ちつける。
自分の心臓は、発作を起こしているに苦しく、痛かった。あとどれくらいたえられるだろうか…………。
「うあ!」
声のあとに聞こえたのは、バサッと資料が地面に落ちる音だった。とたんにふたりの学生は密着させた顔面を離した。
「あぁ、えっと。なんかごめんね」
口を半開きにして棒立ちするその男性は、気まずそうにメガネを触った。
音也は舌打ちした。「じゃぁね、直」と小声でそっと告げる。
「今の見なかったことにしてよね。やべぇー先生」と口角をあげて去った。
淡い斜陽に照らされた放課後の校舎は、ひっそりかんとしている。その場にとり残された女子学生と青年……。
「あの。君、大丈夫?」
彼の問いかけに、直は応答しようとしたが出来なかった。彼女はシャツの胸元をぐしゃりと握りつぶしてその場にひざをついた。
「泣いてるの?」
直のそばへやってきた彼は、様子をのぞき込んでいる。メガネに彼女の由々しい姿が反射した。
「あぁ、あぁ、あぁ、」ともだえるように、直は口を開けていた。呼吸を激しく乱し始めると、眼球がうきでて落ちそうなほど、目をむきだした。まるでのどが焼けるように痛い。
眉をハの字にさせて口を手でふさいでいると、誰かが背中をさすった。
「大丈夫だから。落ち着きなさい」
耳元で淡く低い声がした。直はまつ毛を震わせて、そっと顔をむける。
「ゆっくり、息をはいて」
直は苦しさのあまり無意識に彼の手を強く握った。握られた手を、彼はじろりと見つめ返した。
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