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「はじめて出会った日、君は僕の手を強く握ったでしょ?」 「……覚えてる」 「あのとき。君に手を握られて、僕は強烈な苦痛を感じたんだ」     「あのときは、ただ君が異性だからという理由で嫌悪を感じたんだと思った。けど、君が無性愛者だと確信してからだ。苦しんでる君を見ていると、まるで自分を見てるみたいだった。君が侮辱されたり、まわりから苦しめられているのを見ると、自分が痛かった。僕は、君と同じだったからだよ」 「……同じ?」 「恋人がいたよ。僕は、シスジェンダーで。どうやら異性に恋愛感情を抱くらしい」 「……恋人?」 「大学に入って付き合ったひとは、年上の女性だった。無性愛を打ち明けても信じようとしなかったんだ。それである日、彼女は僕を押し倒したんだよ。関係を迫られたとき、心が強く拒絶した。けど、彼女の力に逆らったら傷つけてしまう。そう思うと怖くて体は動かなくなった」    真は、トランプを机上に投げ捨てると、その手をポケットに突っこんだ。 「半年で別れたよ。その体験で気がつかされたんだ」   真は、彼女に背を向けると窓の外を眺めて続けた。 「この世界は、そもそも性的なコミュニケーションで人間関係が成り立ってるんだよ。性的な世界にもとづくフィジカル・ラブを『本当の愛』と呼ぶんだよ。プラトニックとか、ロマンティック・ラブとか。そういう精神論だけの関係性は、幻想と妄想なんだ」 「私は、そう思わない」 「君がそう思わなくても、世間一般ではそうなんだよ。だから僕は、この社会で生きていくのに邪魔な恋愛感情を……捨てた」 「捨てられるの? 感情を理性で抑えることはできても、捨てることなんかできないと思う」 「できるさ」 「できないよ」 「できるさ」 「できないよ。そのひとのこと、まだ好きなんじゃないの?」 「最後までお互い相容れなかったんだ。願わくは、二度と会いたくないよ」 「どうして?」 「彼女は、僕を精神科に連れていった。ホルモン治療とか心理カウンセリングとかを受けさせようとした。なんども、なんども、病院へ行こうといわれた」 「まさか。無性愛は病気じゃない」 「僕は拒否しつづけた。むこうは、『ここまでつくしていのにどうしてなんだ』ってひどく失望してたよ。最後まであのひとは、僕を変えようと諦めなかった」 「そのひとのどこが好きだったの?」  「君と同じさ。バカみたいに、ただ純粋に好きって思っただけさ。一緒にいて楽で気があったからだよ」  そういった彼の声は、少し感傷的で投げやりだった。 「恋愛的に好きという感情を持てたのは最初のうちだけだったよ。あんなことになったのは、自業自得だよ」 「自業自得ってどういう意味?」 「……確かめたかった。自分に普通の恋愛ができるのか。同時に期待を抱いていた。性愛抜きの恋愛が成立するのかって。つまり欲張った罰。悪意でなくても、ほんのわずかでも、彼女の心を利用した罰。もうそれからは、ひとりでいようと決めた」    最後の一言を聞いた直は、真をじっと見つめていった。 「だから『消えろ』っていったの? いつも冷たかったの?」 「仮に、無性愛の異性恋愛者同士が恋人関係になったとして。手も握らないし抱き合いもしない。キスも性行為もしない。そんな男女に、世の中の人間は納得がいかないのさ」 「なんで世の中のひとが納得しないといけないの?」  その問いかけに真は答えない。 「なんで黙るの。キスやセックスしなきゃ愛と呼べないなら、私は愛なんかいらない。そんなもの欲しくない!」 「そんなこと簡単にいわないでくれ」と真は冷静に返す。 「どうして? あなたがいってたんだよ。『自分を曲げず、変わろうとするな』って。あれは嘘だったの?」 「嘘じゃない。でも、無性愛者の異性恋愛自体がこの社会ではないものにされてる。彼女になんども『無性なんて嘘か病気だ』といわれ続けた。恋愛に臆病になってるだけだとね」 「たとえ他人がどう思っても、自分は自分でしょ?」 「そんなことわかってる」 「みんなが『それはほんとの愛の形じゃない』っていったとしても。たとえ納得しなくても。認めてくれなくても。異常だと言われても私はいい」 「生意気なこというなよ。口ではなんとでもいえる」 「私は……自分に嘘をついて生きていきたくないよ。あなただって。本当はそう思ってるんでしょ!?」 「黙れ。理想を押しつけるな。君はなにもわかってない!!」   「もう、ここへは来るな。二度と」  真の冷徹な口調は強く、直はいいかえせなくなった。    直は部屋を出ていった。  偶然、廊下で丸汐とぶつかりそうになった。驚いた彼は、直の涙に気がついたが引きとめることもできなかった。
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