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あの日もーーー
こうやって、一緒に俺の好きな音楽を聴いていた。
「………な、波川?」
ーーーえ?部活は?
見に行ったんじゃないのか、というような顔を俺がしていたからか、波川は右耳のイヤホンを外しながら、軽く覗いただけ、と言った。
「そ…そう、なんだ」
「バス、まだ来ねぇの?」
バス停の時刻表に視線を向ける波川に、うん、なんか遅れてるみたい、と俺が続ける。
バスは、到着予定時間をすでに5分程過ぎていた。高校生のときもそうだった、この辺りには近くに大きな交差点がいくつもあり、渋滞などで、バスのダイヤが乱れるのはよくあることだ。
だかしかし、もちろん予定通り、到着することもある。
もし、今日、今、あと5分早く、バスが時刻通りに来ていたら。
俺は波川とすれ違い、こうして帰宅が重なることはなかったわけでーーー
…………バスの神様、ありがとう………
俺の脳内は波川に会えた衝撃で、大分おかしくなっていた。…と思う。
まじかよ、と呟いて、波川は持っていたイヤホンを、ん、と俺に向けた。
俺は慌てて、左手を波川の前に出した。
ころん、とイヤホンが、俺の元に帰ってくる。
「………あ、あの」
「お前、その曲好きなんだな」
「………え?」
前を向きながらそう言った波川の横顔を俺が見ていると、しばらくして、波川も俺の方を向いた。
「あのときもお前、その曲聴いてただろ」
口角を少し上げて笑う波川は、今まで俺が見てきた高校時代のときよりも、とても自然で、とても大人びていて、息が詰まりそうなくらいだった。
あのときーーー
それは、バスの中で、俺が波川に助けてもらったあの日のことを言ってるんだろうか。
あんな何年も前の、ほんの一時、一度バスで一緒になっただけの俺のことを……覚えていてくれたのだろうか。
俺の心臓は、波川空都にかき乱されて、信じられないほど早く鳴っていた。
「えっと……成長してないかな、俺」
「別に。いいんじゃね?俺も、好きなもんはずっと好きだし」
波川はそう言って、革靴で地面を軽く蹴った。
「…………今でも、サッカーやってるの?」
「…………え?」
俺がついそういうと、波川は一瞬、びっくりしたような、動揺したような、顔をした。
けれどそれは、すぐにいつもの表情に戻る。
「やってねーよ。高校で引退した」
「あ…そっか」
「お前はーーー…あ、バス来た」
波川の言葉に、俺は後ろを振り返ると、そこの交差点からこちらに曲がってくるバスが見えた。
俺たち以外にも、バス停近くにいた何人かが集まってきて、波川との会話はそこで途切れてしまう。
ーーーお前は何かやってるのか?と、波川は聞こうとしたのだろうか。
バス停前にバスが止まり、乗客が数人降りたあと、俺たちも足を進める。
ちょうど後方から2番目の席が1つ空いている。
俺が降りるバス停までは30分ほどかかるので、出来れば座りたい。でも、波川は確か途中で降りてしまう。
俺は、どうしようか迷って立っていると、他の乗客が座るかどうか確認するように車内を見渡したあと、波川が、言った。
「座れば?お前、結構かかるだろ」
「え……あ、でも」
「これから授業の準備とかで忙しくなるんだから、こんなところで無理すんな」
俺はお前より体力あるから大丈夫。
そうつけ加えて、ほら、と波川は俺の背中を軽く押した。
「あ……ありがとう」
俺は波川にお礼を言い、バス後方まで進み、空いた席に座った。
ーーーバスの後ろからは、車内がよく見える。
俺から離れたあと、手すりに掴まり、スマホを取り出す波川の姿も、よく見えた。
俺は、バスに揺られながら、そんな波川のことを、ずっと見ていた。
手のひらにある、イヤホンを握りしめて。
先に波川が降りるバス停に着くまで、ずっと。
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