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“一生の恋”だと思った。
私は、あなたに出会うために生まれてきたの。だって、こんなにもあなたに恋焦がれているのだから。
規則正しく漏れるあなたの寝息。そのあたたかな息さえ、愛しい。柔らかな髪も、彫刻みたいな深い顔立ちも、鶏肉みたいに豊満な筋肉も、あなたを作り上げるモノ全て、そう、遺伝子ですら私は愛している。
あなたは誰の夢を見ているの?
あなたの脳に入ってみたいわ。
あなたの体温が微かに残る体。それ感じながら横たわり、皮膚の膜を閉じる。しばらくすると、あなたは静かに瞼を開け、どこかへ向かうの。知ってる。毎晩、あそこに行くのよね? 湿った空気が張りつく屋根裏部屋へ。
私はわざと寝息を立てる。あなたの匂いが消えると、ペタペタと床を叩く音が聞こえる。パタン・・・・・・扉が優しく閉まる。
今宵も行くのね? 愛しい誰かに会うために。誰かは分からない。屋根裏部屋の鍵は、あなたが四六時中持ち歩いているから。私はただ、扉に耳を寄せて中の様子をうかがうだけ。
『君は美しい』
『君は最高だ』
『君の微笑は艶美だ』
『君を愛している』
彼の声しか聞こえない。そこにはきっと誰かがいる。微かな存在感を感じるから。でも、彼が一方的に話すだけで、返事は全くない。口を塞がれている? はたまた話せない体なの?
私は今夜も、深いため息を吐きながら寝室へ戻る。そして、もう少ししたら戻ってくるであろうあなたを、冷めきった布団の中で待ちわびる。
“愛している”なんて言われたことはない。それは結婚した時から分かっていた。あなたの気持ちは私に無いってことを。でも、いつかはきっと、愛してくれるって思っていたから待っていたの。でも、姿も分からない誰かが現れて動揺した。“あなたが取られるかもしれない”そう思うと、幸せな未来が音を立ててバラバラ崩れ始めたの。
私は嫉妬した。姿なきその誰かに。その誰かは、たぶんあの日から現れたのだと思う。彼が骨董品屋に行ってからだ。その夜から、彼は屋根裏へ行くようになったの。なぜ? なぜなの?
「おはよう」
「おはよう・・・・・・」
返ってくる声は、いつもの夜の声色とは違う。あの声は生き生きしていて、声によどみない情愛を感じるの。私に向けられるものとは違う。
段々、憎くなる。
卵焼きを包丁で均等に切り分ける。その手に、深い、強い、力が入る。
目も合わさずに、味噌汁をすするあなた。あなたの目には、あの人しか映らないの? 屋根裏部屋に棲むあの人。あなたの“愛している”を独り占めしているあいつ。
私は壊れかけた笑顔で、仕事へ出かけるあなたを見送る。
今宵、私はあいつに会うための作戦を実行する。
薄暗闇に灯るベッドライト。その妖しい灯火があなたの顔の陰影を強める。ベランダに置いた灯籠の火が、ゆらゆらとガラス窓を橙色に染め上げる。
さあ、準備は整ったわ。
私はすうっと息を吸い込む。そして、豊満な胸に手を当てて、ゆらゆらと揺する。
「あなた、起きて!お隣さんが火事で火の粉がうちにまで来てるの!」
「な、か、火事だと?!」
「さあ、逃げましょ?」
「あ、あいつは無事か?!」
案の定、彼はガラス窓に映り込む灯籠を見て、慌てて寝室を飛び出す。私はその後を追う。彼は階段を上がり、一直線にある場所を目指す。
屋根裏部屋――そう、大事なあの人の元へと。
彼が扉の鍵穴に鍵を差し込んで回す。
「ゆかり!無事か!!」
私は一緒に部屋へ入り込み、その“ゆかり”と呼ばれた女を探す。そこは絵画用のイーゼルやキャンバス、絵の具などが散乱しているだけで、人の姿はない。
嘘? 誰もいないなんて! 彼はゆかりの名を叫びながら、あるイーゼルへと向かう。
「ゆかり、無事だったんだな!よかった!」
「それが、ゆかり?」
そこには一枚の絵画が立てかけてあるだけ。それは女の肖像画。藤色の着物を着た黒髪が美しい女の。彼はその絵画を愛しく抱きよせる。
まさか、あなたが愛していたのって・・・・・・。
「気持ちが悪いんだろ? そう思われてもいい。私は絵画の中の女性しか愛せないんだ。そんな変な男だ。私が画家をしていたのは知っていただろう?」
「は、はい・・・・・・」
「画家をはじめた頃からそうだった。生身の女性は愛せない。絵画の中の女性にだけ興奮した。自分でもおかしいと思っていた。だから、お前との結婚を機に画家もやめた。でもこの前、骨董品屋の前を通りがかったら、この肖像画がウィンドウの中に飾ってあったんだ。ゆかりを見たとき、全身の血が燃えたぎった感覚がしたんだ。“この人を手に入れたい”と強く思った。一目惚れだったんだろうな。だから、連れて帰ってきた」
彼は、ゆかりと呼ばれるただの絵の黒髪をなでる。それは大事そうに、愛しそうに。私は嫉妬に狂い、泣き叫んだ。
「だから、毎夜、会いに来てたの?!その人を愛しているから? 私の事なんて愛してくれなかったくせに、そんな姿なき肖像なんて愛さないで!」
「ごめん、ごめん、志麻・・・・・・」
私はその女が憎かった。近くにあったカッターナイフを手に取る。
「や、やめろ!」
近くにはまだ何も描かれていない真っ白なキャンバスが立てかけてある。私はじりじりと刃先を出すと、自分の頬の皮膚を切り取る。生ぬるい液体が頬を伝い、首筋を赤く彩る。
「な、なにをしてるんだ!志麻!」
私はまっさらなキャンバスに、切り取ったばかりの皮膚片を押し当てる。へばりつく朱色と肌色。
「私の皮膚をここにくっつけて肖像画を描くの。だから、あなた、私の目を描いて?」
目の前の彼は目を見開き、近づく私を右手で払い除ける。
「私はゆかりを愛してるんだ!一生分の恋をしたんだ!私はゆかりと生きるんだ!」
彼がゆかりに手のひらを触れると、その手が絵画の中へ吸い込まれる。絵画の中から引っ張られるかのように、彼の体は全て吸い込まれてしまった。
「あなた?!」
さっきまで一人だった肖像画。その中には、彼と彼女が仲良く見つめ合っている絵が描かれている。まるで、二人とも本当に愛し合っているかのような、そんな美しい絵画。
私はカタカタ震えた手のひらで、もう片方の頬も切り取る。滴る血液と涙を手の甲で拭う。さっきのキャンバスに皮膚をこすりつける。
何度も何度も。
「まだ足りない」
私は次に額の皮膚を切り取る。キャンバスに絵を描く。
「まだ足りない」
全身の皮膚を剥いだら足りるかしら。ゆかりのような美しい肖像になれるかしら。私は髪の毛を引っこ抜く。血を塗った部分にそれを貼り付ける。真っ赤に染まるキャンバスに、段々と私の肖像が描かれていく。
切り裂かれていく体。
赤い刻印はあなたへの愛の証。
真っ赤に染まる体から滴り落ちる赤い液体。
増水する血だまりが広がっていく中、私の体は深く、深く、沈んでいく・・・・・・。
見つめた先には、絵の中の美しいあなたがいる。
「やっと、あなたに愛されるんだね・・・・・・今、すごく幸せよ・・・・・・」
〈end〉
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