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いたかった。
顔を上げると目に映るのは、すっかり暗くなってしまった自動ドアの外。10時を指す腕時計。
40を過ぎても尚、売れていないお笑い芸人の俺は、レジ打ちのバイトをしていた。
「芸人」であるはずなのに、稼ぎと生活の大部分を占める「バイト」。
今日も生活の為にいつもと変わらず働き、いつもと変わらず帰る……はずだった。
「なあ昭洋くん、君、最近良くやってくれてるよね。仕事も早くて、とても助かってる。
それで突然で悪いんだけど……良かったらウチの正社員にならない?」
「…………えぇ?」
「嫌なら断ってくれて構わないんだけど……まあ考えておいて」
そう言って持ち場に戻っていく店長。
最近、若い娘が入ってきたからか、やけに軽快なその足取りとは対照的に、俺の心の中は複雑だった。
◇◆◇
正社員になると、昼はライブ、夜だけ勤務……なんて事は出来ない。
必然的に、ライブが出来るのは平日や休日の夜中に、疲れて帰ってきた時のみとなる。
それは、「趣味」ではないのか? 俺は「芸人」なんて名乗れなくなるんじゃないのか? 最早「売れる」夢を諦めることと、なんら変わらないんじゃないのか? 俺から「芸人」を取ったら何が残るんだ?
……いや、俺は芸人の活動が、ステージに立つのが楽しくて、ここまでやってきたんだ。いつか絶対に、売れてやる!
気持ちを切り替えながら、ふと時計を見ると……俺の出番が近づいてきていた。
「危な……考え事してて割に合わんエントリー料おじゃんとか、洒落にならんぞ」
愚痴をこぼしつつ、正社員になるかならないか、という考えを頭の隅へ押しやる。
さあ、待ちに待った出番だ。……5分もない出番だけど。
ステージに出ると、客席は相変わらず、ガラガラに空いているのがわかる。
「はいどうも〜、アキヒロです〜! 眠気も吹き飛ぶようなギャグ、見ていってください!」
そう挨拶すると、俺は上のシャツを脱ぎ捨て、近くに置いてあるセーラー服を手に取る。
着替えおわると、その場で高速反復横跳びを開始!
お客さん、これが──。
「道を塞ぐJK集団になりたかった男」
決まった、と心の中でガッツポーズを取る。
そんな俺とは対照的に、客席には欠伸をする者、「眠りたいのに……うるせえなあ」と言わんばかりに眉を顰める者、入口の方でチラッと覗いて、すぐ帰っていく者。
自分の耳に、自信が砕ける音が届く。俺の陽気な声が、ぴたりと止まる。
しゃべらなきゃ。しゃべらないと。
なのに。
出ろよ、声……、なんで出ないんだよ……
「おぇぇえ……」
そんなことを願ったせいか、吐き気が込み上げてくる。でも今日は何も食べてないから、出て来るものも何も無い。
……あれ、俺って何のために芸人やってるんだっけ……?
ああ、ステージに立つのが楽しいからだった。
あれ、なんで楽しいんだっけ……?
ああ、お客さんの笑顔を見たら、幸せな気分になれるからだった。
あれ、そんなお客さんいたっけ……?
見渡す限り、居るのはスマホに夢中な客と、気持ちよさそうに眠りこけている客。
ステージの上でセーラー服を着たまま嗚咽している俺に、興味を持ってくれる者は居ない。
俺にとって、芸人ってなんだ……?
公衆の面前でみっともなく嗚咽して、自分の持ち時間を超えてもステージにいるせいで、次のコンビの怒鳴り声を聞く。そんな惨めなものなのか?
違う。俺にとって芸人は……テレビで見るたび、腹抱えて。いつになっても憧れて。
……そんな「夢」だったはずだ。
そんな、平凡すぎる結論に辿り着くのと同時に、理解してしまう。
──ああ、もう俺は、夢から覚めてしまったんだな。もう、夢は見れないんだ。
俺の耳には、諦めてネタを始めたコンビの、陽気な声がずっと……響いていた。
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