3. オーシャンとシエル

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 8時を過ぎて、オーシャンとシエルの母親が帰宅した。大きな茶色の紙袋を両手に抱えている。 「あら、いらっしゃい」  肩まである深い紫色の髪にパーマをかけた二人の母親は、私に向かって軽く微笑んだ。その警戒心のこもった目を見た瞬間、彼女が私を好きではないことを心のどこかで感じ取った。 「オーシャンのクラスメイトのエイヴェリーです。お邪魔しています」  立ち上がって自己紹介をすると、中年女性はまた作り物のような笑顔を私に向けた。 「お腹すいたでしょ? テイクアウトで悪いんだけど、あなたが来るって聞いて奮発して買ってきたわ。中華は好き?」 「ええ、好きです」  本当はそれほど好きではなかったが、私のためにわざわざ買ってきてくれたという人に対して、我儘と思われかねない本音を言えるはずもなかった。 「ならよかった」  オーシャン母はダイニングテーブルに、4人前の白い四角い紙容器に入った料理や割り箸とスプーン、缶ジュースなどをざっくばらんに並べ、大ぶりの箱に入った餃子を一枚の皿にあけた。宿題をしていたシエルとソファで居眠りしていたオーシャンも席につき、4人での遅い夕飯が始まる。我が家では6時には夕飯になるので、こんな時間に食べるのが不思議な感じがする。 「腹減って死にそうだったんだよ、うまそー」  オーシャンがテーブルの真ん中の皿に開けられた餃子を割り箸で刺し、口に運ぶ。私も彼女に続いて、慣れない箸を使って餃子を摘む。一方のシエルは慣れた手つきで、ギョーザの横の皿に並ぶ北京ダッグの肉を箸で摘んだ。 「オーシャン、箸の持ち方が違うわ。拳で掴むんじゃなくて、2本ずつの指で挟むの。こう」  妹から箸の使い方をレクチャーされても、オーシャンはどこ吹く風だ。 「いいだろ、食えりゃ」  なんて言いながら、箸をテーブルに置いてスプーンで箱の中のチャーハンをかきこんでいる。 「全く、オーシャンは行儀が悪いんだから。あなたも遠慮しないで食べなさいね」  本心の見えない笑みをオーシャン母に向けられ、無理やり作った私の笑顔は、きっと彼女から見たらぎこちなく映っているであろう。 「そうだエイヴェリー、昨日私が作ったカレーを試食してみない?」  隣の席のシエルが私に声をかけた。内心中華じゃないものを食べたいと思っていた私にとって、天の恵みのような申し出だった。 「食べてみたいわ」  私が頷いたのを見て、笑顔のシエルが立ち上がる。 「あの子のカレーは絶品よ」  シエルの母が自慢げに微笑んだ。  シエルは冷蔵庫から出したカレーを電子レンジで温めて、私の前に差し出した。 「普通のフレンチカレーだけどね。チキンとトマトと玉ねぎを使ったやつ」  スパイスと野菜の混じり合った香りが、鼻をくすぐる。スプーンでカレーをすくい、口に運ぶ。 「美味しい!!」  ハーブとオリーブオイルとりんごの風味の混じったそれは、今まで食べたどのカレーよりも香ばしくて、程よい辛みと甘みで、飢えていた私の舌を喜ばせた。 「本当? 嬉しい。オーシャンに全部食べられてなくてよかった」  作り手のシエルは安心したように笑った。  カレーと中華料理を粗方平らげた私は、オーシャンに案内されて客間へと向かった。客間のテレビの下の棚には誰の趣味なのかクラシックのレコードや楽譜、名作映画のDVDなどが並んでいた。その中に、一枚だけ『一休さん』と表紙に書かれたレコードを発見した。白い着物のようなものを纏った坊主頭の少年の絵が描かれている。気になった私は、そのレコードをプレイヤーの中に入れてみた。 『好き好き好き好き好きっ好き、愛してる〜♬』  突如として大音量で鳴り響く音楽に耳を塞ぐ。  これは一体……」 『アーアー、ナムサンダ〜♬ とんちんかんちんとんちんかんちん気にしない〜気にしない〜♪のぞみはたかくはてしなくわからんちんどもとっちんめん♬』  訳の分からない言語で鳴り響く音楽に半ばパニックに陥っている私のもとに、大笑いをしながらシエルがやってきた。 「エイヴェリー、よりにもよってそれを見つけたのね!」  シエルはお腹を抱えて可笑しそうに笑いながら、レコードプレイヤーのつまみをいじって音量を調節した。  この『一休さん』は日本の昔の人気アニメで、お寺で働く一休という小僧が主人公らしい。彼がとんちをきかせて問題を解決するのが面白いのだという。 「ここにあるのは全部、死んだおじいちゃんのものなのよ」 「そうなの……」 「あの一休さんのレコードは、日本人の友達から貰ったんだって」 「へえ……ちなみにどういう内容の歌詞なの?」 「……ちょっと、説明するのは難しいかな」  シエルは苦笑いを浮かべた後で、木のライティング机の前の椅子に腰掛けた。 「おじいちゃんって、無口で何考えてるかよく分からない人だった。時々部屋に遊びに行くとお菓子をくれて、音楽を聴かせてくれたり、映画を観せてくれたりしたの」 「素敵ね」 「落ち込んだときなんかは、よくおじいちゃんの部屋に行ってた。今でも時々来るの。こうして座って目を閉じて音楽に耳を傾けてると、なんだか安心するのよ」  この音楽に安心するとはとても思えなかったが、あえて口を挟まないでいた。私が突っ込む間も無く、目を瞑っていたシエルはぷっと吹き出した。 「これじゃあ全然リラックスなんてできないわ、笑っちゃう」 「あなたは楽器をやってるのよね? いつから?」  質問を投げかけた私に、シエルはまた柔らかな笑顔を向けた。 「5歳からやってるの。小学校では学校のブラスバンド部に入ってた。中学の時はここから車で2時間くらいのところにある町の全寮制の音楽学校に通ってたわ」 「何かの才能があるって、凄く羨ましいわ」 「才能なんてないわ。フランス中から生徒が集まるんだから、私よりも上手い子はわんさかいる。高校に入った時は、ここでやってけるかなって本気で思ったわ。競争も熾烈だし……。好きだから続いてるけどね」  彼女の通う隣町のグランストーン音楽学院は、数多くの有名音楽家を排出している名門で、かなりの倍率だと聞いた。そこに入るだけでも大したものだ。 「今月末に学園祭があって、講堂で学内オーケストラのコンサートがあるの。良かったら聴きに来て」  シエルはそう言い残して部屋を出て行った。  そういえば、ロマンと両親と4人で、よくオーケストラの演奏を聴きに行ったものだった。ロマンは中学生までチェロを習っていたけれど、元々演劇の方に興味があった彼女は、チェロをやめて脚本家になりたいと言い出した。両親は反対したが、彼女は言うことを聞かなかった。  彼女は演劇の名門と言われる今の高校を受験して合格し、演劇の授業と一緒に脚本の授業も選択している。今回の3年のクラスの劇の脚本も、彼女が書いたものだった。元々読書家であった彼女は文才に秀で、小学生の頃から作文のコンクールでいつも賞を取っていた。彼女はよくノートに物語を書いていて、それを私に見せてくれた。彼女の書く物語はどれもユーモラスで、登場人物も個性的で面白かった。  私が物語を読んで笑うと、ロマンは喜んだ。そして、今度はもっと面白い物語を書いてあげると言った。そんな彼女が私は大好きだった。  今、彼女は私のことを心配しているだろう。母には先ほど、友達の家でしばらくお世話になるとだけメールを送った。両親と姉から電話も何度か入っていたが、全て無視した。  中学の頃から、私はこんなことを繰り返してばかりいる。姉を振り回して困らせて、気持ちを試しているのだ。  妹として純粋に姉の幸せを願えたら、どれほど幸せだろう。だが、私が本心で望んでいるのはそんな妹になることじゃない。私は彼女の恋人になりたかった。命よりもかけがえのない存在として、彼女のすぐ隣にいたかった。それが叶わないから、こうして幼い子どもが駄々を捏ねるように家出を繰り返している。 「あなたは大切な妹だよ。お願いだから、もう私を困らせないで」  初めて家出をしたとき、帰ってきた私を抱きしめた姉は涙を流してそう言った。もう二度と姉を泣かせたくないとその時は思ったのに、こうして同じことをしてしまうのは、私がそれほどまでに嫉妬深く傲慢な内面性を持っているからなのだ。  このままでは、私も彼女も幸せになどなれない。彼女と距離を置くことで自分の気持ちと向き合い、これまで激しく波打っていた心が少しでも休まるのならーー。  こんなことを考える私は、やはり自分の感情優先の、利己的な人間なのかもしれない。  だが今の私には、彼女と離れる以外に最良の選択肢がない気がした。
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