1. 見たくなかったもの

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 振り向くと、涙で滲んだ視界に知らない顔が映り込んでいた。銀色の艶のある長いストレートの髪、ペリドットのように輝く若草色の瞳、透き通るように白い肌ーー。  子どものように咽び泣いている私に向かって、彼女は毅然とした口調で言った。 「女優は舞台を出たあとも気を抜いたらダメ。泣いているところを見せるのもダメ」  こっちよ、と彼女は私の身体を支え、パソコン室の向かいにある、無人の視聴覚室に連れて行った。真っ暗な部屋では、映画研究会による映画の上映が行われている。今放映されているのは、『トト・ザ・ヒーロー』という映画だ。よりによって姉と二人で観に行った映画だった。映画の途中、隣に座る姉の手を握った。暗闇の中で彼女は手を解くことをせず、その漆黒の長いまつ毛に覆われた瞳は真っ直ぐにスクリーンを見つめていた。映画の後姉はクレープを奢ってくれ、その後腕を絡めて二人で買い物をした。思い出が脳裏を駆け巡り、余計に涙が溢れてくる。 「これで涙を拭いて。鼻を噛むのは無しよ」  席に座った私に彼女は白いハンカチを手渡した。 「ありがとう」  お礼を言って受け取り涙を拭う。 「あなたは誰? ここの生徒?」  尋ねると、彼女は一度頷いた。 「ええ、そうよ。あなたと同じ一年生なんだけど、今年は一度も登校できてないのよね」  そういえばオーシャンが言っていた。私の隣の席の子はものすごく有名な舞台役者で、公演のために世界中を飛び回っている。仕事が忙しすぎてなかなか学校に来られないのだと。 「もしかして、私の隣の席の?」 「あなたの隣だったの? 学校に来てないから、そんなことも分からないわ」  彼女は口に手を当てて笑った。鈴を転がすような笑い声だった。その後で彼女は目を細めて私を見つめた。 「クレアよ、よろしくね」  差し出された白く細い左手を反射的に握る。  彼女は私がこれまで見たことのない類の人間に思えた。知的で静謐な雰囲気を纏い、若葉のような瑞々しい美しさを携えている。舞台女優というのは頷ける。彼女にはその独特な空気感から形作られた確かな存在感と、芸能人ならではの、群衆の中にいてもぱっと人目を惹く華やかさがあった。 「ありがとう、助けてくれて」 「どういたしまして。あなたの芝居、素敵だったわ」 「観てたの?」 「ええ、後ろの方からね」  昨日ロンドンでミュージカルの最終公演を終えて戻ってきたのだと、クレアは言った。 「キャサリンは嵌まり役だった。きっと他の誰が演じても、あなたみたいにはできなかったと思う」  大物女優のクレアに褒められるのは、悪い気はしない。 「そんな風に言ってもらえて嬉しいわ」 「お世辞じゃないわ、本当よ。あなたは素晴らしかった。もっと自信を持っていい」  どれもこれも、姉のためだったなんて言えるはずがなかった。思えば私のこれまでの人生は姉で決められていた。姉が読書家で本が好きだから私も彼女に勧められるままに本を読み、気づけば彼女と同じ読書家になっていた。脚本家を目指す彼女がパリの演劇学校に入ったから、私も2年遅れで受験した。この学校は初代校長である伝説的舞台俳優のロベルト・ベルガーが設立した、創立60年の由緒ある学校で、理由は不明だが女子校だった。周りからは、演技未経験の私にはこんな高倍率の難関高に合格するなんて無謀だと言われた。だが私は諦めなかった。姉と同じ学校で学びたいがために一年で本を読み込んで芝居を独学で学び、YouTubeで覚えた発声のメソッドを繰り返し練習した。  受験当日の面接試験の試験管は校長だった。元俳優であるという中年のその男性は、課題である『ロミオとジュリエット』のジュリエットの台詞の一部分を読み上げた私に向かって言った。 「君はまだまだ素人感が抜けないし、荒削りなところも沢山ある。だけどその感情表現の豊かさは、大きな武器になる」  奇跡的に私は合格した。    今日のためにーー姉のために、私は自分にできる限りのキャサリンを全身全霊で演じた。本当は一番最初に褒められたかったのは姉だった。それなのに、彼女はーー。  再び焼け付くような痛みが胸に迫り上がってくる。 ーー苦しい。 「こんなに苦しいのなら、消えてしまいたい」  無意識の呟きが口から漏れていたらしい。クレアは心もとなげに私を見つめ、隣に腰掛けてそっと私の背中に手を当てた。 「何があったか分からないけど……辛い思いをしたのね」  優しくされると余計に感情が堰き止められなくなる。また涙があふれ、嗚咽が口から漏れる。 「もう嫌なの、こんなの。いつもこうよ……。私は姉を愛してる。だけど、彼女は別の人のところへ行ってしまう。彼女に喜んで欲しくてキャサリンをやった。でも全て無駄だった」 「無駄なんてことはないわ、あとから分かる。この経験は必要なことだったんだって」  クレアが励ましてくれていることは痛いくらいに理解できた。だが、今の私の心にその厚意を前向きに受け取る余裕はない。 「必要なわけないじゃない。こんな気持ちなんて、彼女への気持ちと一緒に一切合切捨ててしまいたい!!」  その瞬間ガラリと教室の扉が開いて、聞き慣れた声が耳に響いた。 「エイヴェリー、ここにいたのか!」  今日のために染めた黒の短髪、白のフランネルシャツとブラウンのパンツを履いた男子のような女子。  オーシャンだ。 「クレア、来てたのか!! つーか何泣かせてんだよ?!」  荒い足取りでやってきたオーシャンが、クレアに鋭い視線を向ける。 「違うの、オーシャン。クレアは私を励ましてくれてたのよ」  今にもオーシャンに責められそうなクレアにフォローを入れる。クレアは苦笑いを浮かべている。 「オーシャン、あなたのヒースクリフも最高にシックでダーティで良かったわ」  大女優であるクレアの褒め言葉に、オーシャンは得意げな表情を浮かべる。 「まぁな! 途中から、ヒースクリフと自分の境が分かんなくなってたもんな。なんて!」  冗談めかして言ったあとで、オーシャンは私の頭にぽんと右手を置いた。 「お前のこと泣かせたのは誰か言ってみろ! 俺が成敗してやる!」 「威勢がいいわね、一体どうやって成敗するっていうの?」  悪戯っぽい笑顔を浮かべたクレアが尋ねる。 「その内容にもよるな。相手は一年か?」  私は首を振る。 「三年よ」 「マジか〜……」  先ほどまでの勢いは何処へやら。困ったように頭を掻くオーシャンを見て、クレアが笑いを堪えている。 「犯人は、彼女のお姉さんなのよ」  私はどういうわけか今この瞬間2人に、どうしてもこれまでのことをーー彼女と私の辿ってきた、決して簡単には言い表すことのできない道筋について打ち明けたくなっていた。  
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